2014年01月

前回は日本のパワースポット屋島をご紹介しましたが、今回はヨーロッパの有名なパワースポットであり、人気の観光地でもあるサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼路をご紹介します。
 
何しろこの巡礼路、世界に知られた美食街、知られざるガウディの幻想建築など、などがあり、おまけにあの名画も見られる素晴らしい観光巡礼路なのです。ここで写真などを披露したいのですが、25日テレビで放送しますのでお暇な方は是非ごらんください。
 
放送後にこぼれ話やら、写真やらたっぷりと掲載いたしますので、お楽しみに。
 
『日本語カーナビ大活躍!気ままにCAR旅 PART3
~荒俣宏夫妻 サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道をたどりスペイン横断~』
 
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お寒うございます。今日は日本の「大地力」とでも名付けたくなるような事象について、お話しします。
最近、全国でパワースポットに対する関心が高まっており、神社や寺がさまざまなパワースポット・リストに名を連ねるようになっていますが、信仰や伝承という由来はさておいて、いったい世界的にどういう場所がパワースポットと呼ばれるのか、調査を始めています。きっかけは、四国の屋島を調査したことでした。
 
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  上: 四国、讃岐の屋島  下:同じく、そばにある壇ノ浦
 
 
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世界を見ると、どこでも聖地として通用するのは大地に驚異の現象が刻印された部分があるところ、ということになるようです。たとえば、オーストラリアならエアーズロック、アメリカ合衆国なら西部劇の舞台でおなじみモニュメントバレーや岩肌が彫刻されたかのように削られたアリゾナのセドナ。ドイツならエルベ渓谷のとんでもない奇岩群「バスタイ」。近くならフィリピンのボホール島で見られる、これまた気絶するようなコーン型の山の大集団「チョコレートヒル」など。
 
 
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上:エルベ渓谷「バスタイ」下:フィリピン・ボホール島のチョコレートヒル
 
 
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どこも地球の地形造形力はものすごいと思わずにいられません。このパワーを浴びたくなるのは、生物の本能みたいなものでしょう。
私たちが住む地球は、年齢がおよそ45億年。そのあいだずっと、火山の爆発や風雨の浸食で地球の眺めが絶え間なく変化してきたわけです。ときどきは、こんな奇跡的な風景がどうして造れたんだ、と思うような「奇観」も誕生し、私たちの先祖はそれを神や精霊が宿る「不思議な力のある場所」、すなわち聖地とあがめたのですね。
でも、正直なところ、ここまですごい地形なんて、日本にはないだろうな、と半分あきらめていました。ところが、ひょんなことで、四国は讃岐にある聖山「屋島」がパワースポットらしいので調べてほしいと頼まれました。源平の合戦があった歴史的に名高い場所ですが、これが「島」なのか「山」なのかすら、深く考えたことがありませんでした。でも、あまり期待せずに案内していただき、いろいろ調べたところ、驚くべき事実にぶつかりました。
 
屋島はエアーズロックやセドナなど外国の大パワースポットと同じ力が大地に働いた地形だったのです。大昔、この一帯には火山があり熔岩を噴出していました。それもかたい熔岩で、柔らかい熔岩が流れ落ちて扇型になった富士山のようなタイプとちがい、上の方が巨大な塊になるのです。川や海、あるいは風雨がこの地層の下の、柔らかい部分を削り取って、固い岩塊を頭に載せたような、切り立った構造物を作ったのです。チョコレートヒルも熔岩とサンゴ礁の違いはありますが、同じプロセスでできあがった場所です。
 
さっそく屋島に登り、地形と生物などの関係を調べました。そして、調査を忘れて、とりこになってしまいました。あの屋根をかぶせたような独特の島、いや山は、まちがいなく「メサ」と呼ばれる、日本にあまり類のない自然の傑作でした。屋島の周辺には、このメサが生んだ奇岩や山が群立してもいました。
メサとは、長い時間かかって自然が彫刻した壮大な「残丘」と呼ばれる地形です。火山活動などで上を被われた地層が、下の柔らかい地層だけ風や水に削られ、不思議な台形やキノコ形になったもの。その神秘的な形に、人間は精霊の存在を感じ、その聖地のそばで文化や文明を生みだしてきたのです。
久しぶりの風水的驚きです。今の私は屋島に好奇心を燃やしています。ここは地形から見ても「ヴォーテックス」すなわちパワースポットなのですから。つまり、屋島は第一関門ともいえる自然の力が途方もない形で働いた混成です。これから何度か通い、屋島の秘密を探ってきます。古代人も源平も、この屋島の地質学的な驚異を感じて、古くから聖地としてきたのですね。
そうそう、甘党の私にはもうひとつうれしい発見がありました。屋島の入り口に「わらや」という讃岐うどん屋があります。大きな器で豪快に出てくるうどんもすごいですが、あがりには飛び切りうまいお萩を食せるのです。このお萩東京ではお目に掛かれない不思議な美味しさでしたので、6個テイクアウトしました。
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かねて告知させていただいておりました東京カルチャーカルチャーの「磯遊び復興イベント」が、予定通り1月4日に開催できました。100名もの方々に集まっていただき、ただただ感謝に堪えません。これからもよろしく。
 
私も、共演者のサトウさん、ニイノさんも、60年前の磯遊びの姿になったり、裸にラクダの股引とシャツ姿で熱演したり、外を通る人びとが「何やってんの? 怪しい集会?」と、恐るおそる覗いておられました。また、会の終了後は、そのまま二次会になり、多くの方々と直接お話しする機会が持てました。いままで孤独な道だったので、同好の方々とお話しできたことがありがたかったです。当日の写真をすこしアップします。FIFTYさんのご厚意で提供いただいたスナップ写真をお借りしました。
 
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当日の出し物は、プランクトンの世界紹介と、誰にもできるプランクトン採集、「食べるから排泄まで」のおもしろい観察(ムカデメリベの餌取りはすごかったですよ)、そして「採るから撮るへ」と題し、自然の叡智を知る方法としての磯写真をかんたんに撮れるグッズも紹介いたしました。私たちが二週間かけて編集した苦心の動画や静止画とともに、観ていただきました。
 
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とくに最後の、磯写真のすすめでは、この趣味がただの道楽でなく、博物学・自然学への貢献になり得ることを強調しました。今後、みなさまの磯写真や水槽写真をお寄せいただき、そこに写った決定的瞬間を眺めながら生き物の暮らしを発見していきたいと思います。みなさまの写真を大募集します。応募方法は決まり次第告知し、発表会も開いて賞を贈呈することにしています。
 
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 とはいえ、第一回目は、こちらも舞い上がってしまい、十分に意をつくせませんでした。でも、会の終了後にみなさんが書いてくださったアンケートを拝見し、深海魚の話とか磯の探し方とか、さまざまなリクエストをいただいて、励まされました。これから、勇んで次の取材を進めます。
たとえば、海の観察から地球30億年の生き物の歴史を知る方法、磯でどうしたらおもしろい生物に遭遇できるかを知る技術、文化誌の面では世界の水族館の知られざる歴史(ほんとに水族館の歴史は不明なことが多いのです!)、古今の魚類学者にまつわる秘伝、などなど。これをぜんぶお伝えするには、イベントを数年継続する必要がありますね。
還暦をすぎての最大の楽しみと思って、これからどんどんイベントを開催していきます。できれば、ときどきは参加費が無料! みんなで実際に磯のフィールドに出て、あれこれ観察を試みる会なども、手弁当持参で開きたく思います。
 
さて、
今回、感謝をこめて、ひとつだけお土産話を書いておきます。私はいま、古い水族館を描いた美術の発掘に全精力を傾注していますが、ごく最近、とんでもない発見がありました。榎本千花俊(えのもと ちかとし)という近代美人画の大家をご存じでしょうか。明治版画の巨匠・鏑木清方の弟子で、日本画としては伊藤深水や橋口五葉に連なり、でも大正アールデコのモダン好みとしても石川寅治や小早川清に並ぶ魅力的な画人です。
 
この人に水族館を描いた絵があって、昭和14年(あるいは13年か)の文展に出品されたという記録がありました。探したところ、雑誌「アサヒグラフ」の増刊「文展編」(昭和14年)に現物が出ているのを発見、出展時タイトルも「魚窓」であることが判りました。ここに示したのがその時の出展写真です。
 
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ところがある日、アメリカのフロリダに出かけていた魚類分類学の泰斗で天皇陛下の皇太子時代から一緒にハゼを研究したという林公義さんから、電話がありました。なんでも、ふと立ち寄ってみた現地の美術館で日本の大正期モダンアート展をやっており、そこに飾られたとてつもなく大きな絵を見物したとき、一瞬で「これは明治32年に開館した浅草公園水族館の内部を描いたものにちがいない」と見破り、急いで報告してくれたのです。後で確認したところ、まちがいなく「魚窓」の原画でした。
 
林さんはこの絵から、「水槽のろ過システムが分かる、キュウセンという魚の正確な描写から、これが貴重な水族館資料にもなる」と判断し、私に教えてくれたのです。
浅草公園水族館といえば、閉館したのがいつなのか、いまだによくわからない幻の水族館なのですが、ここの二階演芸場で昭和の初めに榎本健一が「カジノフォーリー」という新型のレヴューを公演したところとして記憶されています。毎週決まった日に踊り子さんがズロースを落とすというデマがひろがり、大騒動になったことと、川端康成がこのレヴューに出演する踊り子たちの想いを描いた小説『浅草紅団』で日本中に知られたものでした。踊り子の一人だった女優の望月優子たちが「ほとんどお客のいない水槽の前で、手すりを支えに、ガラス面を鏡にして、練習しました」と語っていた、その魚窓と手すりが、これだったのです。
 
浅草公園水族館については、話したいことがいっぱいあります。閉鎖時期もいろいろな文献を探しまくって、ほぼ突きとめました。当時の入場券や引き札もみつけ、浮世絵にも登場していたことがわかりました。どこかの機会に、お話しできればと思っています。
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