第3日目 ベルリン→ポツダム→デッサウ→イエナ
朝から土砂降り。9時にヨーロッパカー・アレクサンダープラッツ店でメルセデス180TK・オートマ・フルサイズ・ワゴン・エアコン付を借りる。セダンの方が安いのだが、ワゴンでないと4人分の荷物が積み込めないのだ。レンタカーを予約するに当たって、事前に何社かあたってみた。例えばドイツ最大のレンタカー会社のSIXT。ここは支店の数も、車種も多いが、我々の行程で予約できるオートマ車は二種しかなかった。どちらも大きすぎるか、小さすぎて見送ったが、料金はかなり安い。ドイツ旅行をする人には絶対おすすめだ。イギリスのレンタカー検索サイトで安いところがあったが、ネットでの評判がかなり悪いので、敬遠。結局、いつものヨーロッパカーを借りることになったが、ここが必ずしも安心というわけではない。昨年末、リビエラ海岸をドライブしたときは、ドアロックができず、ポルトフィーノからジェノバまで戻って車を交換するハメになった。
9:30ホテル出発
予めガーミンに登録しておいたサンスーシ宮殿目指して出発。ベルリンから南西へ約40km、所用時間30分。
「サンスーシ宮殿」
世界遺産 1990年登録 〝ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群〝のポツダム部分の中心となる建物。プロイセン王国フリードリッヒ大王(フリードリッヒ2世)が自ら基本デザインを描いた瀟洒な宮殿で、夏の離宮として建てられた。SANS SOUCIとは憂いが無いという意味で、無憂宮とも呼ばれる。両翼97m、平屋建てで部屋数10室、執務室兼寝室には執務用のテーブルと肘掛のついた長椅子のみという質素さだが、フリードリッヒはここが気に入り居城とした。啓蒙専制君主として名高いフリードリッヒ大王はなかなか面白い人物である。父フリードリッヒ・ウィルヘルム1世は兵隊王とも呼ばれた文化に無関心な無骨者で、いっぽうイギリス国王ジョージ1世の娘である母は、教養の高い宮廷人であった。二人の教育方針の対立に翻弄されて育つが、双方の才能を受け継いだようで、芸術家であり、軍事的天才でもあった。
その業績は拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教の自由などが有名だが、ドイツの国民食であるジャガイモを普及させたのもフリードリッヒであった。当時観賞用としてオランダから入ってきたジャガイモを食べる習慣が無く、栽培する農民もいなかった。王は寒冷地栽培に適したこの穀物を普及させるべく一計を案じ、王の畑で栽培するジャガイモに兵隊の見張りをつけ、あたかも貴重品であるかの印象をあたえた。農民らは興味を持ち、兵隊らの目を盗んで持ち出したジャガイモを栽培し始めた。これで一気にドイツの食糧事情が改善されたという。
おもしろいのは、プロイセン王即位前には「反マキャベリ論」をフランス語で著し、平和維持のための外交の重要性や、国民の第一の従僕であるべき君主の理想をのべていたにもかかわらず、即位後は、神聖ローマ皇帝カール6世没後の跡継ぎ問題のすきをついてオーストリアのシュレジエンに侵攻し(オーストリア継承戦争)、結果ハプスブルグ家を継承したマリア・テレジアからシュレジェン領有権と多額の賠償金を獲得するという、マキャベリストとしての側面を見せているところだ。マリア・テレジアとしてもこのままおめおめと引き下がるわけも無く、フリードリッヒが戦後サンスーシ宮殿で、ヴォルテールなどの文化人を招いては夜毎音楽会を開いて社交を楽しんでいる間に、ロシア女帝エリザヴェータや、ルイ15世の愛妾マダム・ポンパドールと結び(3枚のペチコート作戦)、虎視眈々とシュレジエン奪還のチャンスを狙っていた。
それを察知したフリードリッヒは先制攻撃にでて、1758年から7年戦争が始まる。しかしこの戦争はイギリスを除くヨーロッパ列強を敵に回すという圧倒的不利な戦いで、一時は国家滅亡の危機に瀕する。ところが、天の助けかロシアのエリザヴェータが急死して、一気に流れはフリードリッヒに向いてくる。ロシアの後継者のピョートル3世がフリードリッヒの崇拝者だったため、講和が成立。続くスウェーデンとの講和成立を期に、列強も軍を引いた。孤立した宿敵オーストリア軍に勝利を収め、プロイセンのシュレジエン領有が確定。大国プロイセン王国の地位は不動のものとなった。
実はこれには裏話があって、フリードリッヒにはかつてマリア・テレジアとの縁談を勧める者があり、お忍びで見に行ったところ、すっかり気に入って結婚を望んだが、すでにマリアにはフランツ・シュテファンという恋人がいて後に二人は結婚してしまった。フリードリッヒとしては袖にされた恨みなのだろうか・・・・、なんだか歴史ミステリー風になってきた。
話をもとに戻そう。宮殿は高台にあり、庭園へと降りていく石段の両側のテラスはブドウ棚になっている。下から見上げると緑の壁の上に宮殿が浮いているように見える。
庭園内には、1745~47に建てられたサンスーシ宮殿のほか、サンスーシ新宮殿、絵画館、シャルロッテンホーフ宮殿などが増築されたが、是非オススメしたいのは、CHINESISCHES HAUS=チャイニーズ・ハウスだ。サンスーシ宮殿の大階段を下りてマンホールの蓋を模した表示盤に従って進むと、深い森の中に忽然と、巨大なウエッジウッドのキャンディボックスもどきの建物が現れる。エメラルドグリーンの地に黄金の彫刻がこれでもか、と飾られている。てっぺんにはこれまた黄金の中国人が傘をさして座っている。いゃー、悪趣味ですばらしい!こういう、意味無く装飾をつけた見物用建物をフォリーFollyというのだが、いずれ、ヨーロッパFolly巡りもするつもり。有料で中も見学できる。
本日の世界遺産
ポツダムとベルリンの公園群と宮殿群 サンスーシ宮殿
\(◎o◎)/! ここはもう、行くしかありまへん!
写真カバー サンスーシ宮殿が浮かんでいる。
写真1. SANS SOUCIの文字が見える。
写真2 プロムナード
写真3. 大階段
写真4. マンホールのような表示盤
写真5. CHINESISCHES HAUS
写真6. 彫刻
朝から土砂降り。9時にヨーロッパカー・アレクサンダープラッツ店でメルセデス180TK・オートマ・フルサイズ・ワゴン・エアコン付を借りる。セダンの方が安いのだが、ワゴンでないと4人分の荷物が積み込めないのだ。レンタカーを予約するに当たって、事前に何社かあたってみた。例えばドイツ最大のレンタカー会社のSIXT。ここは支店の数も、車種も多いが、我々の行程で予約できるオートマ車は二種しかなかった。どちらも大きすぎるか、小さすぎて見送ったが、料金はかなり安い。ドイツ旅行をする人には絶対おすすめだ。イギリスのレンタカー検索サイトで安いところがあったが、ネットでの評判がかなり悪いので、敬遠。結局、いつものヨーロッパカーを借りることになったが、ここが必ずしも安心というわけではない。昨年末、リビエラ海岸をドライブしたときは、ドアロックができず、ポルトフィーノからジェノバまで戻って車を交換するハメになった。
9:30ホテル出発
予めガーミンに登録しておいたサンスーシ宮殿目指して出発。ベルリンから南西へ約40km、所用時間30分。
「サンスーシ宮殿」
世界遺産 1990年登録 〝ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群〝のポツダム部分の中心となる建物。プロイセン王国フリードリッヒ大王(フリードリッヒ2世)が自ら基本デザインを描いた瀟洒な宮殿で、夏の離宮として建てられた。SANS SOUCIとは憂いが無いという意味で、無憂宮とも呼ばれる。両翼97m、平屋建てで部屋数10室、執務室兼寝室には執務用のテーブルと肘掛のついた長椅子のみという質素さだが、フリードリッヒはここが気に入り居城とした。啓蒙専制君主として名高いフリードリッヒ大王はなかなか面白い人物である。父フリードリッヒ・ウィルヘルム1世は兵隊王とも呼ばれた文化に無関心な無骨者で、いっぽうイギリス国王ジョージ1世の娘である母は、教養の高い宮廷人であった。二人の教育方針の対立に翻弄されて育つが、双方の才能を受け継いだようで、芸術家であり、軍事的天才でもあった。
その業績は拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教の自由などが有名だが、ドイツの国民食であるジャガイモを普及させたのもフリードリッヒであった。当時観賞用としてオランダから入ってきたジャガイモを食べる習慣が無く、栽培する農民もいなかった。王は寒冷地栽培に適したこの穀物を普及させるべく一計を案じ、王の畑で栽培するジャガイモに兵隊の見張りをつけ、あたかも貴重品であるかの印象をあたえた。農民らは興味を持ち、兵隊らの目を盗んで持ち出したジャガイモを栽培し始めた。これで一気にドイツの食糧事情が改善されたという。
おもしろいのは、プロイセン王即位前には「反マキャベリ論」をフランス語で著し、平和維持のための外交の重要性や、国民の第一の従僕であるべき君主の理想をのべていたにもかかわらず、即位後は、神聖ローマ皇帝カール6世没後の跡継ぎ問題のすきをついてオーストリアのシュレジエンに侵攻し(オーストリア継承戦争)、結果ハプスブルグ家を継承したマリア・テレジアからシュレジェン領有権と多額の賠償金を獲得するという、マキャベリストとしての側面を見せているところだ。マリア・テレジアとしてもこのままおめおめと引き下がるわけも無く、フリードリッヒが戦後サンスーシ宮殿で、ヴォルテールなどの文化人を招いては夜毎音楽会を開いて社交を楽しんでいる間に、ロシア女帝エリザヴェータや、ルイ15世の愛妾マダム・ポンパドールと結び(3枚のペチコート作戦)、虎視眈々とシュレジエン奪還のチャンスを狙っていた。
それを察知したフリードリッヒは先制攻撃にでて、1758年から7年戦争が始まる。しかしこの戦争はイギリスを除くヨーロッパ列強を敵に回すという圧倒的不利な戦いで、一時は国家滅亡の危機に瀕する。ところが、天の助けかロシアのエリザヴェータが急死して、一気に流れはフリードリッヒに向いてくる。ロシアの後継者のピョートル3世がフリードリッヒの崇拝者だったため、講和が成立。続くスウェーデンとの講和成立を期に、列強も軍を引いた。孤立した宿敵オーストリア軍に勝利を収め、プロイセンのシュレジエン領有が確定。大国プロイセン王国の地位は不動のものとなった。
実はこれには裏話があって、フリードリッヒにはかつてマリア・テレジアとの縁談を勧める者があり、お忍びで見に行ったところ、すっかり気に入って結婚を望んだが、すでにマリアにはフランツ・シュテファンという恋人がいて後に二人は結婚してしまった。フリードリッヒとしては袖にされた恨みなのだろうか・・・・、なんだか歴史ミステリー風になってきた。
話をもとに戻そう。宮殿は高台にあり、庭園へと降りていく石段の両側のテラスはブドウ棚になっている。下から見上げると緑の壁の上に宮殿が浮いているように見える。
庭園内には、1745~47に建てられたサンスーシ宮殿のほか、サンスーシ新宮殿、絵画館、シャルロッテンホーフ宮殿などが増築されたが、是非オススメしたいのは、CHINESISCHES HAUS=チャイニーズ・ハウスだ。サンスーシ宮殿の大階段を下りてマンホールの蓋を模した表示盤に従って進むと、深い森の中に忽然と、巨大なウエッジウッドのキャンディボックスもどきの建物が現れる。エメラルドグリーンの地に黄金の彫刻がこれでもか、と飾られている。てっぺんにはこれまた黄金の中国人が傘をさして座っている。いゃー、悪趣味ですばらしい!こういう、意味無く装飾をつけた見物用建物をフォリーFollyというのだが、いずれ、ヨーロッパFolly巡りもするつもり。有料で中も見学できる。
本日の世界遺産
ポツダムとベルリンの公園群と宮殿群 サンスーシ宮殿
\(◎o◎)/! ここはもう、行くしかありまへん!
写真カバー サンスーシ宮殿が浮かんでいる。
写真1. SANS SOUCIの文字が見える。
写真2 プロムナード
写真3. 大階段
写真4. マンホールのような表示盤
写真5. CHINESISCHES HAUS
写真6. 彫刻