2006年05月

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今回は、いろいろ出来事が多くて、長いですよー。

5月の中旬は、なんだかずいぶんあちこち駆けずりまわった。それも、今後の仕事の下調べや関連イベントにかかわっているので、手がぬけない。まずは、この秋、日本では空前絶後ともいうべき「ばけもの」の学術的展示がK博物館で開催されることになり、その打ち合わせにでかけた。詳細はまた、公表できるようになったら、書く。 つづいて、『ハリーポッター』第六巻が発売されるお祝いのパーティーに出かけた。さらに、『ダヴィンチ・コード』の映画が公開される直前、そのプレミア試写に行って、最後に、こんど小学館で出るこども百科『キッズ・ジャポニカ』の追い込み監修がはいり、「妖怪」の項目に水木大先生の絵をいただこうと水木プロを表敬訪問した。じつにハードとも、じつに楽しいとも、いい得る。

『ハリーポッター』の新作は、なんでも静山社さんの初版が200万部なんだそうで、腰を抜かした。われわれなんぞ、40年間もファンタジーや幻想文学の出版に苦労してきた世代だから、思い出といってもいいことはほとんどなく、「売れない、知られない、なさけない」の千日回行みたようなものだった。だから、とんでもない数字といわざるをえない。むかし、前川道介先生というドイツ・ファンタジーの翻訳に情熱を注がれた先生は、やっとファンタジーが売れる兆しがみえたころ初めてH書房というちゃんとした出版社の文庫を出されたとき、ちゃんとした印税をもらって、「本を出すとお金がもらえるんですか!」とおどろかれたそうな。ぼくもずいぶん本を出したが、最初はほとんどボランティアであったから、そのお気持ちはよくわかる。しかし、いまはハリ・ポタのみならず、21世紀おもしろファンタジーは「ダレン・シャン」のシリーズといい、「ドラゴンランス」、「バーティミアス」といい、世界中ですごい売れ行きをみせている。信じられないです、いまだに。

で、ハリ・ポタの前祝いパーティーは、なんと、イギリス大使館が会場だったので、なんとしても大使館内部を見物してみたいと思い、パスポートを見せて入館した。警備上の問題で写真はパーティー会場以外だめだったが、緑あふれる構内にすばらしい西洋館が散在し、大使館のかたがたの家族が暮らしている。会場の前には保育園みたいな遊び場もあった。この辺がアメリカ大使館とちがう。じつは、ぼくはアメリカ大使館にもはいったことがあり、すばらしい花壇庭園に、昭和天皇がマッカーサーを訪問されたときのお部屋とか、歴史的な場所を見て回ったことがある。アメリカ大使館は、明るい近代趣味のお屋敷という感じだが、イギリス大使館は緑の郊外別荘といった趣がある。よく知られているように、イギリス大使館前の道は一等地にもかかわらず、いまだに舗装なしの土道をまもりつづけている。雑草もよく育っている。この道の雰囲気こそ、日本最初の本格的歩道ができた銀座通りの、最初のたたずまいを彷彿させるもので、ホントに貴重なんだよ、と建築師匠の藤森照信大人が、昔よく言ってたっけ。

で、その直後、映画『ダヴィンチ・コード』のできばえを拝見に、有楽町へ。映画は夜7時すぎからだったので、少し早めに銀座へでかけて、いまや有名な「キムカツ」を試食することにした。銀座らしい雰囲気のお店で食べるキムカツは、成城の「つばき」さんやら阿佐ヶ谷の「かつ源」さんやらでトンカツをいただくぼくにすると、もうちょっとあぶらの甘味がほしいな、という感じだったが、ヘルシーなお肉はとろけるようなやわらかさで、どんどん食べられる。キャベツとおひつ入りのごはんをおかわりし、満足の満腹となった。

さて、時間はまだ30分ほどある。一緒に映画を観るマネージャーのYさんに頼み込んで、なんとかもうひとつ悲願を果たさせてもらうことにした。プランタンの地下にはいっている「マジックアイス」が、どうしても食べたい。糖尿と痛風を忘れ、群がる女性の群れを掻き分けて、スタンド前に立つ。お値段はしょうしょう高めか、と思われたが、なにやらクレープを焼くときに使うような丸い金属板にアイスクリームを載せ、叩いたり伸ばしたり、まるでパン粉を練るみたいな「処理」をほどこし、フルーツやらナッツやらを加えてまた叩き、ちょっと江戸っ子好みの「もんじゃ焼き」風なテイストのあるごちゃ混ぜアイスが、一丁あがった。食べてみたら、背中に天使の羽が生えて地上数十センチほど浮き上がるかのごとき、体がよろこぶおいしさだった。しかし、おかわりは許されず、映画へ直行。

そのすぐあと、水木大先生の事務所に訪問。仕事のお願いは5分でかたづき、大先生と談笑しているところへ、大先生のお兄さんと弟さんがおいでになった。久しぶりにお目にかかるが、お兄さんのほうは90歳に手が届くお年頃と拝察するもお元気そのもの。水木大先生よりも元気があふれておいでだ。弟さんはマネージャーで、ゴルフの鬼。高齢ゴルフクラブでもご活躍で、なぜか女性会員だけは72歳あたりで打ち止めにしてらっしゃるという天国のようなお暮らしぶり。いまや、境港の宝ともいえる水木三兄弟の勢ぞろいには、まばゆくなるような活気がみなぎっておられる。お三人そろって合計300歳まで、もうすこし! どうかして、ギネス記録達成の長寿三兄弟がじつげんするまで生きていたいものだ、とは思うものの、きっとぼくのほうが先にあの世へめされるだろうな、と、つくづく実感する。水木大先生のオタクを訪問するたびに、たぶんぼくの寿命が一年はのびているはずなのにもかかわらず・・・

あとは、500体限定制作の珍フィギュア「水木先生執筆中」という作品を拝見させていただいた。これがまた、おもしろい! 大先生が机にむかって執筆されている銅像を、ちいさなフィギュアにしてあるのだ。ぼくは、小さいうえによく見えない目をキラキラさせ、このしゃれた作品にすっかり魅せられていると、「あんたも収集癖があったんだね、ハーハハハッ」と、大先生が独特の笑いとともに、その貴重な限定品にサインしてくださった。おもわずひれ伏して、感謝する。こんなうれしいことは、めったにない。たいせつに我が家へ持ち帰った。

折りも折り、目下、我が家では、長年ゴミ箱も同然であったガレージ脇のスペースを改造し、だいぶん数が多いフィギュア類のディスプレー棚にする計画がすすんでいる。これを手がけてくれているのは、いまや切絵師の道をまい進する助手のイケダさんだ。100円ショップに行って、フィギュアケースを大量に買い込み、フィギュアを一体ずつ組み立てている。そしておどろいたことに、ここをお大掃除中に、長年、生ゴミとして捨てられたと思われてきた「ジェニー・ハニバー」すなわち、ヨーロッパで17世紀から知られた怪物標本が再発見されたのである。まさか、こんなところに埋もれていたとは!!ジェニー・ハニバーを発見したイケダさんへのご褒美として、このブログに最新作の切絵を紹介することにした。最近はピンナップ・アートを切絵に応用する試作が進行中で、展開が楽しみ。再発見されたジェニー・ハニバーとともに、眼福を得られんことを。

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やっと入院させました。リヨンで落札して以来、我が家のだいじな秘宝とされてきた、19世紀のビシー作「ピエロ・エクリバン=文字書きピエロ」、本物が。

痛々しいかぎりの包帯姿で、ひとり入院していきました。付き添いは許されません。

このピエロ君が我が家にやってきたのは、たしか平成5年のこと。フランスでみつけて、手にいれた。なんでも有名なパリのオートマタ制作工房ビシーというところで、わずか10体ほどしか制作されなかった超希少アイテムだそうだ。日本に本物が一体いくつ渡来しているしているだろうか。よくオルゴール博物館で目にするけれども、本物はあまりみかけない。うちのは、お顔がとてもいろっぽい。

このピエロ君、めでたく落札したまではよかったが、きわめて精巧な骨董品だったので、日本に持ち帰れなかった。頭をかかえているところに、救いの神が登場した。JALの親切なスチュワーデス・・・・じゃなかったCAさんのご好意で、なんとかファースト席のワードローブにしまってもらい、日本に連れ帰ることに成功した。このおおきな人形を四角い入れ物に詰めて持ち込んだとき、チーフから「フランス人を一人、お持ち帰りかい?」と皮肉られたそうだが、しかし、なんとかなった。ただし、そうなるまでに、半年を費したというたいへんな代物であった。

ところがである! 風水の祟りか、数年後に不意の突風が室内に吹き込み、棚にかざってあったお宝類が全部床に落下したのである。人生最大の、まったく気絶しそうな損失となった。あのときの、ガラガラと異様な音とともに次々に(将棋たおしみたいでした)カラクリ類が落下していった光景は、今も目に焼きついている。この大事件があって以来、家の周囲に邪気除けの神像をいろいろと置いた。

で、悲惨な事件があったその棚には、残骸が今もそのまま残っており、いちばん悔やまれるのは、パリのクリニャンクール骨董市場で魔女みたいなおばあさんから買った19世紀の魔術師ピエール・ウーダン御使用の名器「マジック・クロック」と、この文字書きピエロだった。マジック・クロックはメカがガラス製だったので修復不能の大破。ピエロのほうは椅子もランプも首も破壊されてしまった。

でも、ぼくはこういう世界のお宝を一時的におあずかりしているにすぎない。死んだら、だれかまた、ワンダーをもとめる次の世代に、ゆずり渡さなければいけない。責任を痛感するのだ。そこで、ピエロだけでもなんとか助けられないかと、思った。とりあえず、絶対安静に寝かせて、オートマタを手術してくれる細工師の方をさがしまわった。アメリカとかスイスに、何人か修理屋さんがいたけれど、海外輸送の問題で手術を受けられなかった。

結局、ピエロ君は、呼吸器装着、絶対安静のまま5年以上寝かせられたままの運命となった。もう、誰が見たって手遅れである。

ところが、今年の三月、ひょんなことで、目白のほうにあるオルゴールの博物館にでかけたとき、そこに修理工房があることを知った。いろいろご縁があって、細工師のかたが、「とりあえずやってみましょう、ただし、退院日はいつになるかわかりませんし、大手術ですから命が助かる保障はありません」と、請け負ってくださった。まさか、日本で入院できるとはおもっていなかったぼくは、わがことのように歓喜した。

さっそく5月の吉日を占いで選び、いよいよ入院というところまでこぎつけた。当日、慎重にピエロ君は紙で体を巻かれ、病院の車に乗せられた。
もうこの家に戻ってこられないかもしれない。しかし、一縷の望みにすがって、手術の成功にかけることにした。涙ながらに、車を見送った。でも、どんな結果になるか、さきは分からない。ぼくは毎日、手術の無事成功を祈るしかない日々だが、なんと言っても、開腹と開頭を両方やる手術だから、予断をゆるさない。ピエロ君の手術経過については、また報告する。細工師のみなさん、どうかよろしくおねがいいたします。早くよくなれ、ピエロ・エクリバン!

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今回は黄金週間スペシャル版なので、ゆったり書きます。

去年は義理の母の看病で忙しく、その分、年明けから仕事にツケが回ってきて、今年前半はてんてこまいの忙しさだった。

そして、黄金週間。もはや8年間を過ぎている『帝都幻談』という長編小説1000枚にカタをつけなばならない。骨休めもかねて、東伊豆の仕事場へ自主缶詰になりにでかけた。

なにせ、この小説は水木しげる大先生に挿絵を描いていただき(済み)、京極夏彦先生に前口上を書いていただく(予定)という、本人最後の大作である。20世紀中に出版するはずだったが、いろいろ構想を練ってるうちに、8年も過ぎてしまった。さすがに、版元に合わせる顔がなく、原稿があがったところで、「出していただけますでしょうか?」と頭をさげた。「まー、中身を拝見しましょうか」ということで、とりあえずデータ化し、長い話を推敲して完成稿をお渡しすることになった。これを、今年の黄金週間の「目玉」仕事とした。

この小説、8年も手元にあったものだから、ボクと一緒に世界を旅している。イースター島に、一緒に行った。アマゾンのジャングルにも同行した。ガラパゴスにも、サンクト・ペテルブルグにも、レンヌ=ル=シャトーにも、また死海やイェルサレムにも、ダーウインの家にも、出かけた。旅の友みたいな間柄である。自主缶詰で、10回以上もホテルに一緒に籠った仲でもある。

しかしそれも、この東伊豆の旅が最後かと思うと、じつに感慨深いものがある。その悲しみをまぎらわせるため、まずはイチゴ狩にでかけ、30分間でコンデンスミルクがなくなるほど食べまくった。料金700円というのも、おいしかった。

ところで、東伊豆なら、キンメダイの煮付けが名物。イチゴを食べただけでは、キンメ様の立場がなくなるといけないから、そのあと即座に稲取の「魚八」へ行った。ぜんたいに東伊豆はキンメの煮付けの味が甘いのだが、ここはキリリとしているので、リピーターになっている。ワタリガニのお味噌汁やらお刺身やらが食べきれぬほど付いて、2600円ほど。一気にかっ込み、幸せな気持ちになった。

もちろん、そのあとは、仕事地獄となる。わざわざここの風呂のために、お宝コレクションのひとつ、アールデコ期アメリカ客船に付けられていたバーの飾りガラスをはめこんだバスルームに、出たり入ったりしながら意識を保ちつづけて仕事に没頭、ついに4日の朝に完了して、めでたく帰宅を許された。

そしたら、おどろいたことに、ここ3年まるで不調だったアメリカのコミック・イラスト専門オークション、「ヘリテージ・コミック」のバトル結果がメールで来ていた。フランク・R・パウルの初期SF挿絵とか、マリリン・モンローをモデルに使ったことで名高いアール・モランの、そのモンロー・ピンナップとか、ほしかった原画類は全滅だったが、なんと一番希望していたエノック・ボールズの雑誌カバー原画が、バンザイ、バンザイ、奇跡的に落札されていた。

ボールズは、いま、アメリカで急に再評価がすすんだ1930年代のピンナップ・アーチストだ。ぼくは10年ほど昔に出会って気にいり、必死でかれのカバーがついた雑誌をあつめた。とくにお気に入りは、1933-34年にかけて刊行された風俗雑誌『ベッドタイム・ストーリーズ』で、カバー画が「世界妖艶美女シリーズ」の連作になっている。吸血貴婦人バートリ、クレオパトラ、デリラ、エカテリナ2世、ポンパドール夫人、などが、綺羅星のごとく並ぶ。昔は、このカバー画に名がなかったので、アーティストがだれだか分からなかった。でも、ぼくはボールズだと信じていたところ、5年ほど前にやっぱりボールズの作品だったことが確認された。ラグリンさんという大学教授がボールズの遺族を突き止めて、確認したのだ。

この教授が、ネットで「ボールズという画家の遺族を探している」という書き込みを、ボクは1999年ごろから見ていた。自分と同じに、こんな無名のピンナップ画家に関心持ってるヒトがいるんだなー、と思っていたら、執念で遺族を探しあて、もっか、ボールズ伝を執筆中だ。

ラグリンさんと親しくなったのは、ネット・オークションでボールズ表紙の雑誌をバトルしあったお蔭だった。いつも、同じ相手にぶつかるので、メールを出した。どーせ二人だけで競ってるのだから、ここはいたずらに争うのでなく、お友達になって、君がないものは譲り、そのかわりこっちがないのは譲ってもらう、という「談合」でいきましょう、と。

すぐに返事がきた。それが、あのラグリンさんだったのだが、急に人気が盛り上がったボールズ物は競争相手が激増し、せっかくの談合も無意味になったけれど・・・・。

しかし、世の中はおもしろいもので、その後ボールズ・コレクターがぞくぞくと登場し、ボールズの遺族ともラグリン教授の引き合わせで知り合いになった。あるとき、ボールズのお孫さんからメールがきて、おじいさんの原画買わないか、といってきた。「ボールズ・ガール」と呼ばれるベビーフェイスなのにボディーはマリリン・モンローというあの絵の原画は、元来本物の画家志望だったボールズが、他の作品と同様に油絵で描いていたことがわかった。ぼくがウンといわぬわけがない。さっそく、果物桶にすわった美女の原画を買い取った。

その後、大のボールズファンだった夫に急死されたご婦人が、お墓をたてるのに手元不如意ゆえ、夫が大切にしていたボールズの原画を泣く泣く売らなければならなくなった。ラグリン教授に仲介を頼んできたので、教授はぼくを推薦してくれた。しかも、この作品が、ボールズ三大傑作といわれた名品のひとつだったから、ぼくはおどろいた。透け感あふれる黒のネットガウンをつけて足を組んだ、フラッパーの魅力を存分に振りまきつつも気品を感じさせる、美女の油絵である。

もー、悲しい未亡人のために、わたしは有り金を全部はたいて買い取りましたよ。すごい値段で。でも、いい話でした。ぼくも、身につまされました。なんだか、そのうち同じ運命になる気がします。

それから、しばらくボールズの原画にであう機会はなかったけれど、この4月に、オークションに『ベッドタイム・ストーリーズ』のカバー用に描かれた作品が出た。どーせ無理だろうと思ったが、いちおう入札しておいたのが、みごと落札!

うれしかった。さっそく、この絵が使われた雑誌をひっぱりだしてきて、眺めている。これからいろいろ手続きがあるので、、現品にお目通りできるのは、6月になってからだろう。

終わりよければすべてがよくなってしまう黄金週間。感慨深いものがありました。

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