2006年04月

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京都の丸山公園にある祇園桜の夜間照明は、花が散りかけるころに早々と終わってしまうので、ぐずぐずしていると見損なってしまう。照明がつく最後の日曜日に、何とか都合をつけて京都へでかけた。

今年は寒い日が多かったせいか、京都名物の枝垂桜は満開状態に近いあでやかな姿を保っていた。なのに、この日かぎりで夜間照明を切ってしまうのは、おかしい。そして、惜しい。

この日は雨のそぼふるあいにくの天気だったが、夕方に京都駅に到着後、その足で「哲学の道」へ出向いた。疎水にそって桜が咲き狂っている。銀閣寺橋で車を降り、若王子橋まで、雨の中を歩くことにした。距離はよくわからないのだが、今年85歳になる母を車椅子に乗っけて、雨水のたまる砂利道を押しながら歩くと、予想以上に疲れた。とても、若王子まで行けそうにない。若王子というと、どーーしても、『新撰組血風録』で土方歳三を演じた栗塚旭を思いだす。たしか栗塚さんの喫茶店があったよなーー、とは考えたものの、聞けば2キロもあるという。

母を二回、車椅子から落としたところで若王子までの散歩は、断念、タクシーに来てもらって、早々に円山公園へ移動した。料亭で若竹の懐石料理をいただき、疲れも癒えたところで、さーーこんどは祇園の桜を見物しよう、と外へ出たら、うまい具合に雨もやんでいた。

坂をゆっくり下りて、長楽館の前をすぎると、ライトに照らされた巨大な祇園桜が見えてきた。とたんに、ワクワクする。夜桜の元祖とでもいうのだろうか。昔、祇園桜は本当に祇園にあって、夜になると人々が桜の下で踊りあかしたのだそうな。九鬼周造がこのあたりに住んでいたらしく、祇園の夜桜のことをどこかに書いていた。いま円山公園に移された祇園桜は二代目だが、それでも、こいつは桜の「もののけ」だと、ぼくは思っている。照明に下から照らされて、上からおおいかぶさるように枝と花を広げるその姿は、まったく化け物じみている。だから、夜桜の下で京の町衆が踊り狂うのは、祇園桜自体が踊り狂っているのにつられているだけなのだ、などとと妄想してしまう。

そういうわけで、今年も無事に、化け物の桜を眺めることができた・・・・と思いきや、ナンカちがうぞ! 両手を前につきだし、桜色の袖をぶらぶらさせながら、「オバケだぞーー!」といきなり声をかけてくるようなもののけの迫力が、今年はないのだ!花は満開なのに、なんだかさっぱりと剃髪して山寺にでも出家したような、変に悟りをひらいた桜になっている。おどろいた。あんなに色っぽくて、誘惑されそうな・・・まるで三輪明宏さんの「黒蜥蜴」みたいな祇園桜だったのに。

屋台の水あめ屋さんで聞いてみた。そしたら、祇園桜の上のほうを切ってしまったという。ちょうど、フードをかぶったように覆いかぶさっていた頭のほうが、ばっさり切られていたのだ。いちばん上の一層がないから、化け物感が消滅したのだった。

桜守の佐野藤右衛門さんが、ほんとうに祇園桜を切る決断を下したのだろうか? おととし、藤右衛門さんにお目にかかって、京の桜のすごさをくわしく話してもらったばかりなのに。
「ソメイヨシノはあかん、色気がないわ、いっぺん祇園桜、見てみぃ、乳母桜の色気っちゅうもんがどんなにすごいか、感じ取っていってや。そりゃー、すごいもんやで」って、いってくれたのに。

すこしがっかりしたので、京都の夜桜のオバケ感覚を奪回すべく、夜10時まであちこちの夜桜を見てまわった。でも、ほんとうは、祇園桜とともに見たい夜桜があったのだが、今年はもうライトアップしないという。日曜の夜なのに、それはないでしょう!

ソコというのは、もちろん、平安神宮だ。あそこの枝垂桜はすごい。おととし、平安神宮の夜桜を堪能したのだが、こちらは吉野の山桜の下で「望月のころに死にたい」といっていた西行の気分がわかった。魔物なのだ。桜はみんな、夜になると動き回る。そんな気味悪さにあふれた、圧倒的におそろしい枝垂桜だった。

でも、今年はソレが夜に見られない。仕方がないので、翌朝見に行った。朝見る平安神宮の枝垂桜は、たしかに華やかで、都の洗練を感じさせるのだが、「魔物」じゃない!その点、本人がすでに妖怪に近くなっている老齢の母は、車椅子が通れない回遊路にもかかわらず、自分の足で歩いて見物する、といいだした。しかも、平安神宮の枝垂桜にうっとりしているうちに、とうとう庭を一周してしまったのだ。でも、ま、いいか、魔物のかわりに妖怪でも。

東京に帰って、おととしの京の桜を、写真で見直してみた。ここに載せた写真のうち、最後のものがおととしの祇園桜だ。平安神宮の枝垂桜も夜桜の写真はおととしの撮影。祇園桜も平安神宮の枝垂桜も、やっぱり二年前は化け物だった。藤右衛門さんがいってたっけ・・・桜はな、満月にむかって満開のピークをもっていくんや。西行はんはそれを知っていたから、望月のころに死のうと思いはった。つまり、満開の花の下で死のうとしなはったんや。昔の人は科学知らんでも、ちゃんと自然のことを知ってはった。今の人は、知識あっても、自然のこと、まるで知らんわ・・・・

藤右衛門さんの言葉が、つくづくと思い出された。

来年は、祇園桜が化け物の力を回復してくれるだろうか? ぼくには、そう祈ることしかできない。それから、平安神宮の夜桜も、来年もういちど見たいものだ。

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助手で切り絵もできる池田さんにお願いしている書庫と物置の掃除が、大いに進みつつある。ていねいに古本を拭いてくれる。ぼくが忘れていたものが、彼女のおかげでいろいろと発見されているのだけれど、この前、とんでもない骨董品が出てきた。池田さんは挿絵画家志望だから、挿絵画家に関係する掘り出し物はすぐに発見してくれるのだ。

カイ・ニールセンというイラストレーターをごぞんじだろうか。デンマークに生まれ、パリで絵の修行をし、1913年にイギリスで挿絵画家デヴューを果たした。1886-1957年の生涯のうち、なんと言っても有名なのは、1914年にロンドンとパリで同時刊行した北欧童話挿絵集『太陽の東 月の西』だ。うちにもオリジナル本が一冊ある。パリのピアッツァという出版社が出した豪華限定版で、ロンドンの出版物より色刷りの出来がよく、デザインもいい。

で、このニールセンだが、第一次大戦が勃発したおかげで贅沢な挿絵本を注文する出版社がなくなり、1924年ごろまでコペンハーゲンに戻って舞台美術を手がけながら細々と暮らした。

その舞台のひとつが1936年だかにアメリカで上演されることになり、ニールセン夫妻も一緒にカリフォルニアへいざなわれた。運命とはおもしろいもので、ニールセンはコノトキ、アメリカでアニメーションという新しい仕事に出会うのだ。雇い主は、もちろんウォルト・ディズニーである。

ディズニーはそのころ、大作『ファンタジア』を手がけていたが、ニールセンの幻想的なタッチにほれ込み、『ファンタジア』中の「アヴェ・マリア」と「禿山の一夜」の背景などを制作依頼した。このほか、やっと最近公開された「リトル・マーメイド」にもニールセンは参加している。けれども、あまりに過酷な労働条件や、アニメーションとの相性の悪さのおかげで、ニールセンは数年を経ずして首を切られてしまう。以後は教育や舞台の仕事に細々ながら暮らしの糧をもとめ、貧困のうちに亡くなった。

というわけで、ニールセンの知られざる作品はアメリカにずいぶん埋もれているらしく、いまでもときどき、ディズニー・スタジオのために制作したアニメ用の下絵やデッサンがオークションに出る。10年ほど前になるだろうか。アメリカの「スワン・オークション」に、おもしろいニールセン物が出品された。それは、近所に住んでいた女の子へ誕生日の祝いとしてニールセンが贈ったという、手描き挿絵のはいった時計だった。たぶん1940年代の作品だろう。とても素朴な作品で、お祝いをもらったご本人の女の子も描かれている。ニールセンは自分で時計のデザインもしたらしいのだが、貧乏だったから高い時計は買えなかったようだ。ぼくがこの時計を落札したとき、時計のメカニズムはさびて動かなくなっていた。そのうちに時計の機械部分を修理し、動くようになったら、部屋にでも飾ろうと思った。でも、忙しさにかまけて、いつか忘れ果ててしまったのだ。

それが、出てきたのである。めでたいので、自室に飾ってみた。たしか、当時だれかと競って、すごい金額で落札したはずだが、今見直すと時計自体はほんとうに安物である。ただ、ニールセンが隣の女の子のために精魂こめて絵を描きいれた。そこが、うれしかった。

カイ・ニールセン直筆の絵を見ながら、かれが歩んだ「すこしツキのない人生」のことを考えた。かれの挿絵はいつもすばらしいファンタジーだったけれど、その分だけ、かれの身の上は悲しい。ぼくはこのちいさな時計を、昔どおりに動くようにしてやりたいので、ちかぢか修理屋に持っていくつもりでいる。

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一週間の旅行をこなした。イタリアとフランスを駆け足でめぐった。おいしいものがある国の旅なのに、朝から晩まで移動と撮影を繰り返し、まともなレストランにはいれたのは一日だけという、過酷極まりない日程だったけれど。

ニューギニアの旅以来、どうも足に変調をきたしたようで、今回も飛行機に乗ったら大きなマメが足に3つもできた。これが痛くて仕方がない。ついに2日目には歩行不能となり、車椅子のお世話になる。係員さんに押してもらいながら、空港を行き帰りした。みんなとてもやさしくいたわってくれる。フランスはストだの暴動だののさなかだが、やっぱり民生は進んでいる。パリで東洋医学のデュパ先生という人に足を治療してもらい、ようやく快方にむかったものの、最後までサンダル履きのだらしないヨーロッパ旅行になってしまった。

書き忘れたが、なんのためにヨーロッパまで行ったかというと、レオナルド・ダ・ヴィンチの探索と、あの「聖杯」の調査が主要目的だったのである。

ついに、ローマで先祖代々テンプル騎士団の家系という家をさがしあて、20年前に騎士団のローマ総長が入手したという、伝説の聖杯を対面した。その写真をしっかり撮ってきたので、近いうちにここに載せられると思うが、まだ差し障りがあるので、出せない。総長のお話だと、うっかり出せば命の危険があるという。その割には、妙にあっさり見せてくれたみたいだが、貴重な品であることにかわりはない。

それでは、最新ヨーロッパ路上観察のお披露目を。

1  パリの街をロケバスで走り回っていたら、運よくカルティエ美術館の前を通った。横尾忠則さんの個展が大々的に開かれていて、一階のウインドーに真っ赤な横尾アートの巨大ポスターがはってある。これはすごい!! がんばって現代美術をコレクションしているカルティエ財団に敬意を表して、ちょっと見物した。パリで見る画霊・横尾忠則の美術は、エレガントな都会にいきなり脳の原始境が殴りこみをかけたようで、迫力勝ちだった。

2  次は、思わず「毛ガニ」と読んでしまうフランスの郵便局のマーク。車のサイドについていて、しかもこの車には茶色い耳と尻尾もあった。リスみたいな車で、かわいらしい。手塚治虫のワンワン・パトカーか、あるいは宮崎駿の猫バスを思いだす。それにしても、このマークは日本の文字にどうしてこんなによく似ているのだろうか!!

3 足のマメの治療に行った東洋医学の先生の待合室で、雑誌を読んでいたら、SWATCHの広告ページに、お相撲さんがチュチュを身に着けてポーズをとっている、じつに奇怪な画像があった。イメージがすごすぎるので、さっそく記録した。好きだなぁ、こういう手のものは。

4 ミラノ空港で、またおもしろい広告を発見。小さな写真をこれでもかとばかりに張り込んである。ところが、これを遠くから見ると、なんと「苗を植える人の手」に見えてくるのだ。コンピュータ・アートとしても、おもしろい。じつは、アラマタもむかし、あるオタッキーな友達に、自分の大好きな本だの博物画だのの写真を張り込んで、全体にアラマタの顔が浮かんでくる仕掛け絵をつくってもらったことがある。ひょっとして、このポスター、あのときの友達がまたやってるのではないだろうか、と思った。クレジットを見てみたが、どうも知り合いが手がけたものではなさそうだった。

5 夜、ホテルに11時過ぎに到着、あまりに満月がうつくしいので、夜景写真を撮った。夜景はうまく撮ると、すばらしい効果があがるのだ。あすは、まぼろしの聖杯を見に行く日だったので、なんか神秘な予感がした。

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4月5日に吉村作治さんがいらっしゃった。うっかり時間をまちがえて30分以上おまたせしたので、話は10分だけ。でも、すぐに決まった。吉村さんが学長となって来年オープンする「サイバー大学」(仮称)の話。「朝ズバッ!」仲間の岸井さんも講義をもたれるというので、ぼくもひとつ担当することになった。世界遺産学部の講義だから、「古物コレクション学」でもやろうかなーー。

ふつう、大学を設置するには校舎がないといけないのだが、構造改革特区を申請して、インターネット内に本格的大学が設置できることになった。「放送大学」とどう違うのか尋ねたら、「あっちは放送するカリキュラムが時間割りになっているが、こっちはオンデマンドで自由、世界中からアクセスできる」とのこと。つまり、例の「放送」と「通信」の違いらしいのだが、特区がからんでいるところがおもしろい。

昨年から特区の成果を世に知らせる仕事をしていて、東京タワーの4階にできている内閣府の「感どうする経済館」がその現場だ。日本の借金の大きさを実感させること、それでも経済は借金だけにあらず、未来に光はある、ということを小学生から高校生の若い皆さんに身をもって知ってもらうのが、メイン・コンセプト。で、ここへくると日本の借金を背負えるという楽しみもある。借金は一家庭あたり1600万円、その分の札束を詰めた「借金リュックサック」がかつげるのだ。余裕のある人は、借金が一分間に増える額6500万円と三分間の増加額2億円のリュックもあるから、かついでみよう。ちなみに、ぼくは2億円の借金リュックをかついだとたん、あまりに重くて腰を痛めた。60キロくらいあるらしい。

ここでは、小学生の社長とか主婦の起業とか、新しい経済のヒントになる活動が紹介されている。将来への光ですね。先日、「カブトムシ特区」を申請した内田龍司さんという、イチローを年取らせたような顔の酪農家にお目にかかった。というより、特区の有名人なのでお会いするのはもう3回目になる。しかし、今回は特別で、問題の「カブトムシ」に対面できたのだ。牛の糞を野積みにして堆肥をつくると、ここにカブトムシの幼虫がたくさん育つ。ふだん牛乳を飲んでくれる子供たちに幼虫をプレゼントする活動を始めたうちださんは、やがて大きな壁にぶつかった。家畜排泄物処理法ができて野積みが禁止されてしまったのだ。そこで特区を申請し、久留米に「カブトムシの育つ野積み堆肥が可能になる地区」が認められた。

内田さんが、その幼虫を200匹も持参してイベントに参加した。子供が殺到し、こちらのトーク会場は人がいなくなった。さっそく内田さんのところへ行って、大人なのに幼虫をいただいた。ぼくは幼虫段階でもオスメスを区別できるので、大きなオスを選んだ。おそろしいことに、その区別法をちゃんと知ってる小学生もいた!!ビンに入れられた幼虫を、暗くて涼しいところに置いておくと、6月ごろに成虫になる。楽しみ。

しかし、内田さんと話をしているうちに、いろいろなことがわかった。この「カブトムシ特区」は、ただのボランティアではなく、将来の経済にかかわっているのだ。幼虫がたくさん育った堆肥には、カブトムシの糞がまじり、これが堆肥の成分をぐんとアップさせるというのだ。内田さんの実験では、サクランボの甘味が2割アップしたそうだ。優秀な作物がとれることがわかって、目下さらなる実験がおこなわれている。カブトムシは東南アジアにもたくさんいる。そういう国でカブトムシの幼虫が育った堆肥を活用し味のよい農作物ができれば、世界経済に貢献できる。「カブトムシ・ブランド」の農作物が生まれる日は近いかもしれない。

さて、「感どうする経済館」のイベントは、ほかにもいろいろな活動を紹介する。この日はカブトムシとLOCOさんの紙コップアートが紹介された。いつもはポイと捨ててしまう紙コップだが、これを張り合わせて、まるで仮面ライダーみたいな真ん丸いかぶりものを創作されたのが、LOCOさんだった。これをかぶると、ほんとに変身する。ひっこみじあんの子も、大胆に町を歩けるようになる。自己アピールできるようになる。子供へのセラピー効果も期待できる新アートだった。ほんとに紙コップ製なので、だれにでもつくれるし、かぶるとカップのすきまから外が見えるので自由に歩ける。これかぶって、外套キャンペーンやったら、さぞや目立つだろうな、と思った。
最後のお話に移ろう。この経済館のイベントでかならず会う人が、もう一人いる。広告会社から内閣府に出向した袖川さんだ。マニアである。食虫植物研究会に所属し、食虫植物で経済活性化をというような特区申請はしていないが、経済館のアイデアをいろいろ出してくださる人である。「感動する」と「どうする」をくっつけたネーミングの生みの親でもある。趣味の世界でもディープに活動されていて、お仲間で出版した食虫植物図鑑には、文字どおり感動した。世界の食虫植物が自生地写真で掲載されているのである。なんと、ぼくも死ぬまでに行きたいと念願しているギアナ高地にまで行って、撮影と観察を敢行しているのだ。これにはおどろいた。

カブトムシをいただいて帰ると、その食虫植物研究会からのプレゼントも届いていた。すばらしいネペンテスの絵がはいった額だった。特区、じゃなかった、得をした。

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