2006年03月

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豪華客船「飛鳥Ⅱ」が4月初旬からいよいよ最初のワールドクルーズに出発する。それに先立ち、新しい船内を見学するワンナイト航海がおこなわれたので、参加した。

この船は、もとクリスタル・ハーモニーという名で外国航路を活躍の場にしていた。これを日本人向けに改装、飛鳥の二代目として再出発させたものだ。全長241m、総トン数50142トンとのことで、初代飛鳥よりも1.7倍大きい。

横浜港で船を実際に見て、びっくりした。初代飛鳥には3回乗船したが、その飛鳥が赤子のように思えるほどの巨体だった。デジカメで写真を撮ろうとしたが、デッキからは全体がファインダーに収まらないのだ。かつて、初代飛鳥がセーヌ川の河口にはいったとき、パリから車を飛ばしてみにいったことがある。飛鳥が橋の手前に停泊しているのが、街中から見えた。まるで、大きなビルが川に浮かんだみたいだった。でかいなーー、と実感したものだが、今度の飛鳥があそこへはいったら、どういうことになるのだろうか。

さっそく飛鳥Ⅱのなかにはいった。船内エレベーターで10階へ上がって、まっすぐな廊下を歩いた。あるけど、歩けど、行き止まりが見えない!やっとのことで部屋に到着した。室内は広かった!バスルームもひろびろとして、シャワー室も別についている!!じつは、バスルームは航海中非常に重要な役割をはたす。寄港地ごとに土産だの骨董だのを買いあさっていると、すぐに部屋が荷物だらけになるので、このバスルームを倉庫に使うのだ。トイレをバスも、いざとなったら外の大浴場とトイレを使われる「つわもの」もいらっしゃる。それから、ベッドも優雅で心地よい。

ラウンジも、すし屋の「海彦」も、ライブラリーも、さらに大浴場もジャクジーも、それからプールも、みんな大きくなっているが、ちゃんと初代飛鳥の雰囲気を踏襲しているので、違和感がない。きっと、常連さんがスッと新しい飛鳥にはいりこめるようにという配慮なのだろう。ただ、大きすぎるので、人をさがすのがたいへんになった。
以前の航海でお近づきになったお客さんが乗船されているのではないか、と探してみたのだが、これが一向にみつからない。むかしは、夕食の時間にレストランの前で待っていれば、たいてい、会いたい人に出会えたものだが、今度はそうはいかないのだ。

結局、食事時間にお目にかかれたのは、斉藤茂太先生(前は飛鳥が橋の下を通過するたびに、モタ先生が橋を持ち上げるポーズで写真を撮られるので、みんなで真似したものだ)、いつもユーモアにあふれたイタズラ大好きのC.W.ニコルさん、それに作家の安部譲二先生であった。

そう、そう、それからこの船にはかならず、すごいコレクターがお乗りになる。気功の
山崎先生は乗船されると、カバ集めを開始なさる。カバの彫刻やら絵葉書やら、とにかくカバが表現されていればなんでもよい。アジアやアメリカやヨーロッパなど「カバがいない国々」の港で下船したら、みやげ物屋を巡って、カバはないかと探しまわる。すると、一航海で200種もあつまるらしい。こんなとこにカバはいないだろうという港にかぎって、カバがいるのだ。南極近くの港でカバを発見されたときは、さすが気功の大先生でも大喜びであった。数がそろってくると、カバコレクションがおもしろくなり、他のお客さままでが下船時にいっしょになってカバをさがしまわり、発見すると買ってきてくださるようになる。

高梨さんとおっしゃるお客様は下船する先々で石を拾われる。帰国して、これらの石を石膏にマウントし、般若心経の一節から漢字を一字選んで筆記される。まさに手作りの立体写経だ。

でも、いちばんお目にかかりたかった大村崑さんと岡村瑤子さんご夫妻とはついに出会えなかった。われわれは死海で一緒に泳いだ間柄なのである。下船寸前になって電話でご夫妻が乗船されているとの情報を得て、大捜索がはじまった。最後の最後でお目にかかれたのは、下船後の陸上構内。握手したとたんに、サヨナラとお辞儀をすることになった。

それほど、新しい飛鳥は大きかった。豪華だった。この船に乗って、アマゾン川をさかのぼることが、ぼくの夢であります。デッキで見かけた色っぽい人魚さんと、夢の実現を誓い合った。

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まず、最初の話題。それにしても、グーグル・アースはすごいなー、とつくづく思った。

これから取材に行く土地の地勢を調べたいときは、このサイトを見る。すると、スパイ衛星がやったのじゃなかろうかとびっくりするような、一軒一軒の家や道路までがバッチリ見える、すごい実写画像があらわれるのだ。

世界のどこの地図でも見られるし、サテライト機能に切り替えると、そこんとこがそのまんま人工衛星から撮影した画像が見られる。それも、半端じゃなく、自分の家がチャンとわかるのだから、すごいというしかない。

マップで自分ちの住所をいれて、場所を特定してやる。すると、地図が出てくる。地図では、現在の環境が正確に示されているので、おらん家のとなりに何軒家があるだとか、道案内の確認にもなる。

でも、これをサテライトに切り替えると、こんどは実写版の我が家があらわれる。泣けてくるのは、サテライト版の絵が7,8年以上も前の画像を使用していることだ。我が家の場合、まわりは杉並で一、二、をあらそう巨木の森だったが、6年ほど前にみんな切られ、たくさんの分譲住宅になってしまった。

ところが、このサテライト画面に出てくる我が家のまわりには、まだ、あのなつかしいケヤキの森があるじゃないか!! まるでタイムスリップしたような気分になれる。

そのうちに、これを使って東京を空から調査しまくり、うわさで聞いたことのあるAからZまでぜんぶそろった「アルファベット建物」を探し出すつもりだ。ついでに、日本銀行の「円」の形に類した「謎の文字建築」もさがしたい。早く、暇をつくろう。

もうひとつ、また別の話になるが、世の中にはいろんなおもしろい才能があるなー、とつくづく思った。

ぼくの助手をしてくれている池田さんは、日大芸術学部の卒業生で、シンガポールで就職するはずだったのが、仕事先とトラブルになって、勤めないうちに辞めた。次のチャンスまでアルバイトがしたいというので、この際、なにがなんだかわからなくなったぼくのヴンダーカマーを整理、整頓してもらうことにした。

これからいろいろ、本人すら忘れ果てたガラクタ珍品を池田さんが探し出してくれるはずだから、お楽しみに、といったところだが、この人は変わった人だった。

まだ若いのに、古い挿絵本が大好きで、ハリー・クラークの挿絵本とか、革表紙の博物図鑑をみつけると、日干しをかねて庭に広げた本を飽きずに眺めている。

海洋堂の古いフィギュアが出てくると、大喜び。水木大先生のポスターも、たくさんあるのはあげるから、といったら、すぐにいろいろ探し出してきた。どうも山になった書庫から本をみつけてくる才能があるらしい。これはありがたいことだ。志望は雄松堂のような洋古書をあつかう会社だそうだが、既卒なので新卒採用試験に引っかかりにくいらしい。

池田さんは絵を描く。マンガ家になるか、挿絵画家になるか、悩んでいるらしいが、
6年ほどシンガポールにいたので英語で喧嘩ができる。で、こっちの才能を活用して洋古書をあつかえるような会社勤めもいいかな、と思っているらしい。

我が家にきては、せっせと革表紙の手入れだの、雑多な印刷物の整理だのやってくれている。でも、寝ていてひらめきがあると、夜中でもかまわずにムックリ起き出て、夜を徹してなんだか作業をはじめる癖がある。最近、ハッとひらめいたのが、切り絵だった。朝、一睡もせずに切ったという作品をたくさん持ってきた。

どれも、よくできている。なにしろ、ゆくゆくは挿絵画家志望なのだから、地獄太夫だの、八百屋お七だの、清姫だの、といった激しい物語キャラの女性を選んで、名場面を切っている。さながら、滝平次郎の作品のごとき、迫力と完成度がある。

「池田さん、紙切りもだいぶやってたんでしょ? これは経験者の仕事にみえるものね」と訊いたら、「いえ、まったくはじめて、夕べふいにやってみたいと思っただけなんです」との返事であった。

紙切りのパターンは、いろいろとあるようだ。色紙を二枚に折り、ごちょごちょと切ってから、ひろげると、左右対称の絵ができるのやら、はさみで紙をくるくると回しながら切っていくのまで。けっこう計算がむずかしいはずなのだが、池田さんの場合、とつぜん思いついて、いきなり切りだしたらスイスイ行くので、おもしろくて止められなくなったという。

これからもどんどん切ってみるというので、楽しみがふえた。池田さんが今後発見するであろうぼくのガラクタ類とともに、傑作切り絵ができたら、このブログで紹介する。あ、それから、「グーグル・アース」で探す「アルファベット建築」もね。みんなに見てもらいたい。

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つかれ切ったので、しばしお休みいただきました。
リフレッシュのため、南の島で釣りでもすることにします・・・

というわけで、計画実行。行き先は八重山諸島の石垣島沖。今は、いま季節風が吹き海が荒れるシーズンだ。雨も降りやすく、場合によると大雨のため飛行機が欠航することもある。
でも、釣り人にとっては、短い冬が終わっていよいよ本格的な釣り日和の春がやってくるシーズンでもある。わー.行きたいなー、と思っていたら、沖の大物ハタ、すなわち沖縄でアーラーミーバイの20,30キロ級を釣りに行こう、と誘ってくれる仲間がいた。テレビの釣り紀行収録をするから、大きいのを釣りにいこうではないか、とお役目は付いてきたものの。

それでも、大物ハタの釣りなんて、はじめてだ。指導してくださる金城さんという釣具店のオーナーに聞いたら、そんな大きいのは年に一、二本しか上がらないから、二泊三日の日程では無謀だといわれた。

それなら、とりあえず、大物ハタがどんなやつか敵情視察をしようと考え、石垣のハタ養殖場へ見学に行った。石垣は、ハタを卵から養殖する貴重な技術をもっている。生簀に出かけたら、大きく育ちすぎて売れなくなったという5キロ級のハタがいた。掬い上げたら、ものすごく重かった。ヤイトハタという、1メートル近くになる黒い種類だ。これで5キロとすると、もし大物が釣れても、自力でとりこむことができるであろうか!!いや、不可能だ。おすれおののいたが、 めったに釣れる物ではないと言う金城名人の話で、また落ち着いた。とにかく、ヤイトハタは成長がはやく、病気にもかかりづらいらしい。幼魚を一年半育てると出荷に適した大きさになる。理想的な養殖用の種類だ。

生簀を見たら、20センチほどのヤイトハタが群れている。別の生簀はもっとすごくて、まんなかに黒っぽい箱が吊るしてあるだけにしか見えない。でも、よく見ると、それは小さなハタの子がかたまっているプラスチックの箱だった! やっと10センチになったころの幼魚がゴッチャリ固まっていた。数百匹はいるにちがいない。

さて、実際の釣りのほうになる。われわれは、島から1時間ほど沖に出た、水深50-100メートルあたりで、アジのチョンがけによる釣りを開始した。すると、上がるわ、上がるわ、沖縄で最高級魚とされるアカジンことスジアラの30センチクラスが次々に上がった。これは値段が高いので、漁師さんはアカジンが釣れると、隠すようにして陸にあげるという。ほかにセンネンダイ、フエダイ、シロダイなどがおもしろいように釣れた。

しかし、徹夜仕事をしたあと何も食べずに石垣にやってきたぼくは、いきなり船酔いにおそわれた。5-6尾つれたところで急にめまいがし、へたりこむようにダウン。上もしたも、どんどん水みたいなやつが出てきた。オエ、オエ、やってるうちに気が遠くなり、そのまま気絶した。夕方、気がつくと船は帰途にかかっていた。妙にしずまりかえっていて、気味悪かった。

釣れたアカジンの刺身をつくってもらったが、さんざ吐いた後だから、とても食べ物がのどを通らない。ほとんど食べられなかった。あーー、どうしてこんなに船に弱いのだろう。

でも、天気には恵まれた。このシーズンに願ってもないような凪にぶつかったので、いよいよ大物釣りとなった。朝6時に出航、途中でサビキを用いてえさになるムロアジを釣った。これがしかし、むずかしい!!ボクが一匹もつらないうちに、船長さんはあっという間に20尾を吊り上げ、沖に向かうことになった。なにしろ凪で片道3時間、荒れると4、5時間以上もかかる、与那国から台湾にも近いあたりまで行くのだそうな。

昼ごろ、ナカノカミシマとかいう小さな島が見えるところに到着。まわりはぜんぶ、海。もーー、こわいくらいの青さをたたえる海だ。でも、時間がおしいので、すぐさまムロアジの鼻に針を引っ掛け、錘ごと海に投げ込んだ。沖なのに水深20-50メートルの浅い根を狙う。すると、錘が底について、5メートルほどあおったとたん、強いアタリがガツンときた。必死に巻き上げると、巨大なサメがかかった。あばれる、あばれる!!聞けば、このあたりの海はサメだらけだという。海に落ちちゃいかんよーー。
サメは船にあげて殺しても、あごだけが勝手に反応して強く閉まるからあぶないらしく、人間の手などかんたんに切断してしまうらしい。すぐに、糸を切って海に追い返した。

しかし、これが運のつきとなった。あとは、サメにたたられっぱなしの悲惨な釣りとなった。大きな引きがあるたびに大格闘するのだが、あとちょっとで姿が見えるというところで、いきなり糸が切られる。ハタがかかっても、吊り上げる途中でサメに横取りされるらしいのだ。同行の名人ですら、糸を切られてばかり。

船長さんが深場の200メートルあたりまで船を移動させてくれるが、サメの魔手から逃れられない。
ゴウを煮やした船長さんが、みずから竿を持って釣りはじめる。さすが、本職!棚をかえたためか、20キロ以上もある巨大なヒレナガカンパチを吊り上げてくれた。つづいて10キロ級のをもう一尾。さらに3尾めは巨大なアタリだったが、悪戦苦闘の末に引き上げてみると、なんとカンパチの頭だけがあがってきた!! サメに胴体を食われたのだ。

なんか、『老人と海』みたいな展開になってきた。われわれは5時までねばったが、サメのあごをかいくぐってハタを船まであげることができなかった。しかし、夕方近くになって、ますます大きなアタリが!! はたしてわれわれは大物ハタを釣れただろうか?これはドラマだから、答えはまだ書かないことにする。BSの番組みてくださいね。

餌のムロアジがとうとうなくなった。死闘もこれで終了。ぼくは船長さんが吊り上げたカンパチを抱き上げて、記念写真を、パチリ。
港に戻ったのは夜8時ちかくだった。

翌日は、一転して豪雨。飛行機が3時間半おくれたが、なんとか那覇経由で東京に帰りつけた。
これで、心と体の休養になったのだろうか?
いや、吐いて、興奮して、余計に疲れがたまっただけかもしれない。
しかし、釣りはおもしろい。きっと、また出かけたくなるのが、自分でも分かる。

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昨年、角川で「妖怪大戦争」という映画が製作された。主役を張った天才子役、神木隆之介くんが日本アカデミー賞の優秀新人俳優賞を受賞したので、原作担当だったぼくもお祝いに授賞式に駆けつけた。神木くんと、プロデューサーの井上さんと、三人で晴れがましいテーブルに着いた。

まわりを見渡すと、豊悦さんとか市川染五郎さんがいらっしゃる。吉永小百合さんのご尊顔をまぢかで拝見できた。昔の「キューポラのある町」はよかった。あのとき弟役を演じた中村伸郎くんだったかは、いまどーしてるんだろうか。たくましくて、好きだったけど。

「妖怪大戦争」が封切られてまだ半年チョットしかたってないのに、おどろくほど大人になった神木くんと、「あーーあ、また『ALWAYS三丁目の夕日だよ』が取っちゃったよ」などと、おしゃべりしながら、進行していく授賞式を楽しんだ。でも、映画撮影時の熱気が思い出されて、とてもなつかしくなった。撮影は足掛け三年前の夏から始まって、去年のお正月がいちばんのクライマックスだった。なにしろ、スタジオが火事で燃えてしまい、妖怪のいくつかも犠牲になったのだから、すごい。菅原文太さんから、「火事でいいじゃないか、作品に火がつくんだから縁起がいいのだ」と、逆に元気づけられて、妖怪モブ・シーンの再撮影がおこなわれた。

制作プロデューサー仲間の京極夏彦さんと、現場にはよく出かけた。ふたりして、一年かけて、監督の三池崇史さんに妖怪学の講義をし、「妖怪は弱くて、スケベで、せこい!」という
実情を理解してもらったため、時間はかかったが、最後のほうはもうすべてが三池ワールドに塗りこめられ、たいへんなことになっていた。全国から集まっていただいた妖怪エキストラの人たちを前にして、監督が妖怪の演技をつける場面では、うれし涙がでるほどみごとな名演出が展開した。火事のあとだっただけに、このときの力の抜け方はきわだった!!
「はーーい、みなさん、これから大戦争シーンの本番です。でも、戦争しないんです、妖怪は。弱いから。盆踊りと間違えて集まってくるんです。ですから、宴会みたいにに戦争やってください。本気でダラダラとやってください。いいですか、みなさん妖怪は、ながいこと監獄に入れられていて、いま出所となりました。わーー、と出て行こうとしたら、正門前に風俗店があった。心ならずも、そっちへ行っちゃうんです。そんなつもりで!」
このひとことで、妖怪たちははじけました。みんな必死にだらだら演技をこなしました。かくて、戦争しない大戦争シーンができあがりました。ほんとにごくろうさまでした。今見直しても、あのシーンは感動だった。

でも、いちばん監督の演技指導に忠実だったのは、ほかでもない、水木大先生だったと思います。というか、水木「幸福論」をご自分で実践してみせてくださった、というべきだろう。

水木大先生の出番は、大戦争が終わった直後、「戦争はいかんです、腹が減ります」の名せりふを言うシーン。たったこれだけのせりふだったが、大先生は輿のなかから顔を出され、気乗り薄そうにせりふを言われる。すぐに気が散ってしまわれ、クスッと笑ったりなされて、一向にやる気を出されません。それはもう、みごとにダラダラな演技だったので、三池監督がオーケをだすまでに30テーク以上やり直したでしょうか。あの、肩から力の抜けた、ちょっとはにかみながらの快演技を、見直すたびに思います。やっぱりこの映画をいちばんわかってらしたのは大先生だった、と。そして、大先生に対し、いよいよ尊敬の気持ちをふかくするのです。日本アカデミー賞の助演男優賞には、京極さんがカッパの阿部サダヲさんを推しておりました。大賛成です。でも、もうお一人、大先生のすばらしい演技もアカデミー賞に値したと思います。

「妖怪大戦争」の続編がいつか作られるかもしれません。そのときはまた、みんな集まって盛り上がりましょう。神木くん、受賞おめでとうございました!!!

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日本一のカキフライを食べる会、というのを開いてやるから暇をつくっとけ、と「食に命をかける会」のえらい人たちがおっしゃった。発酵学者の小泉武夫先生と、かつおぶし老舗「にんべん」の秋山さん、それに千葉の網元の平野社長が、手配してくださるという。まだニューギニアで受けた傷や熱がさがらない状態だったけれど、カキフライが大好きなぼくにとって、日本一とくれば、もーー捨てて置けない、冥土の土産にぜひ食べておこうと、痛む脚を引きずって馳せ参じた。

当日はなんと、ぼくとは奇縁で結ばれた大詩人、ねじめ正一さんも参加された。というのも、かつてご実家でかつおぶしを売っておられたねじめさんは、「かつおぶし小説を書く運命を背負わされた作家」として、目下ご自分の運命に挑んでおられ、一足先ににんべんの話を書いたぼくとは、やがてわが国に樹立されんとする新ジャンル「かつおぶし小説」の同志にあたるからである。それで、にんべんの秋山さんが一緒にしてくださった。しかも、われわれは住まいがともに阿佐ヶ谷、しかも高校は日大二高で、一学年違いと来ている。ネジメもアラマタも変わった名前だから、一度聞けば記憶に残ってるはず。でも、ボクは残念ながら覚えていなかった。学校時代に会っとけばよかったのになぁ、と今にして思う。ただ、ねじめさんは野球部から卓球部だったらしいけど、先輩のぼくは文芸部と園芸部と剣道部だったから、接点がない。無理ね、やっぱり。おまけにぼくは、大学も日大には行かなかったし。

ものすごく新鮮なカキフライを食べさせる問題のお店は、浅草から大川を渡った本所吾妻橋にある「レストラン吾妻」である。気さくな感じの店構えだが、名だたる食通の通う洋食屋さんという。ここの有名メニューは、なんといっても「オムライス」である。チキンライスのうえに、とろとろの半熟オムレツをかける。ふわっとかかったオムレツを崩すと、ふわふわジュルジュルした卵がじゅわーーーとチキンライスのうえにひろがり、舌までとろける感じがする。世紀の味覚人、小泉先生すら座席でぐじゅぐじゅに溶けてしまうほどのおいしさである。

でも、今夜の主役はあくまでカキフライだ。なにしろ、鮮度チェックの神様といわれる網元の平野社長が思わず、ウーーンといって唸ったのだからすごい。プリプリしてるのに水気がすくないのは、最高級のカキが使われているから、とわれわれシロートに教えてくださった。小泉先生はすでに上着をぬいで腕まくりし、カキフライ二個に特製ソースをかけて、はぐはぐ・ほくほく食べはじめておられる。でも、マスターから、最初は何もつけずにお召し上がりください、と指導された。たしかに、何もかけなくても塩味がほんのりあって,味わいふかい。とりあえず、みんなでカキフライをフォークに刺して、乾杯! 

カキのグラタン、カキのスモーク、ゆずコショウの味がついたカキをカリカリパンに乗せて食べるカナッペと、カキづくしの強力連射に圧倒された。でも、われわれは即座に白いご飯を注文。カキフライがいくつ来てもぜんぶ平らげる態勢をととのえた。結果、カキフライを7個食べたところで厨房のカキが消滅した。打ち止めである。仕上げはもちろん元祖「吾妻式オムライス」を一気にかっこみ、大満足のうちに、終了。

ぼくは思った。「これは、カキフライ小説も書かねばいけないなーー、ねじめさんに先駆けて」、と。

ちなみに、「レストラン吾妻」はたぶん予約が必要。でも、絶対におすすめです。ぜひ、カキフライを食べつくしてください。ただし、マスターのお話では、カキフライは2月いっぱいくらいで終わるそうです。いいカキがなくなるから。ぼくも一回しか食べられなかったから、はやくマラリアなおして来年のシーズンを待つことにする。

ほんとに、ごちそうさまでした!

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