2006年01月

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ずいぶんご無沙汰しました。書き込みをなまけてたわけじゃありません。その間ずっと、マサライと死闘をくりかえしていたのです。神のご加護で、なんとか生き延びました・・・・

電気もなにもない秘境の一番奥まで行こう、という計画が二年前から持ち上がった。なにしろ大先生のご希望であったので、どんなに奥深い秘境へも出かけないわけにはいかない。それで、ようやく手配がついて、1月14日に探検の決行となった。毎日マラリア除けの強力な薬マラロンを飲み、これまた強力な防虫剤と殺虫スプレーを体に噴射しつつ、ちいさなカヌーで泥水の流れる大河をのぼりつづけた。川のなかはワニだらけ。しかもこの秘境ではワニが命を脅かす危険な存在で、とりわけ恐ろしいのはマサライの憑いたワニなのである。

書き忘れたが、マサライとは精霊という意味の現地語で、超自然的なパワーをもつ存在のことだ。このマサライをあやつって呪いをおこなう術者も多い。呪術者を養成する学校まであって、4年制のカリキュラムなんだとか。卒業試験がなんと、家族の一人を呪い殺すこと、というのだから、実際に卒業できる人はすくないという。そのマサライが憑いたワニはおそろしいなんてもんじゃない。旅の途中出会ったお葬式でも、先祖伝来の呪いによってつい数日前ワニのマサライに殺された若者を悼んでいた。地元の子供に、その「マサライワニ」の絵を描いてもらったら、なんだか古代エジプトのワニ神みたいで、すごかった。ちなみに、ワニのマサライは水の女神に仕えていて、この女神はすべての自然物とマサライを創造した「地母神」だった。月がまぶしいと雲を吐いて曇らせてしまえる。この川の女神の姿も絵に描いてもらったら、まるで埴輪か大魔神みたいな格好だった。われわれは、川の神やマサライが住んでいる「精霊の家」も見学したが、素朴でしかも神秘感に満ちた精霊の彫刻が置いてあって、頭がくらくらした。精霊を目覚めさせるには、若者が梁の上に登り、一人ずつ飛び降りるのだそうだが、二月堂お水取りにおこなわれるダッタンの儀式を思いださせた。

連日焼けるような暑さの中、われわれはカヌーで川をのぼりつづけた。しかし、とうとう力つきた。3日めで熱中症にかかり、倒れた。電気もない、ベッドもない、わずかにマット持参で川を上ってきたわれわれだったから、倒れても医者はいない。教会の牧師館に転がり込んで何とか助かったものの、もう前進は困難となった。やっとの思いでチョッパー(ヘリコプター)を呼んでもらい、平地へ運んでもらった。でも、だれともなく、これはマサライにやられたのではないか、といううわさが流れた。秘境の精霊にとり憑かれたら、文明人といえど、命があぶなくなるのだ。われわれは冗談とも思えず、怖くなって日本へ逃げ帰ることにした。帰りぎわ、マサライの彫刻を地元の人が売りにきた。ここらの秘境は文化度が高く、すばらしい精霊の彫刻を生産する。一体50キナだといっていた。日本円にすれば2000円ほどか。買いたいけれど大きい。それに、高い。チョッパーもきたので丁寧にお断りすると、それじゃーーお土産にあげるからもってけ、という。ちょっと歯がでたような山の精霊と、例の川の精霊の大きな像をいただいた。

ところが!! あーー、精霊なんぞ気軽にもらってはいけないとつくづく思い知らされる出来事がおきてしまった。夜、ホテルで偶像二体を眺めていたら、川の精霊のカラフルな腰巻からちいさな虫がちょろちょろでてきたのだ。見ればゴキブリの仲間だ。あわてて殺虫スプレーをまいたら、出るわ出るわ、5,6匹も這い出してきて、別種の芋虫みたいなやつまで姿をあらわした。まるで式神のようなやつらだった。これって呪いなのだろうか。悪いことしてないはずなんだけどなーーー。

われわれはさらに一泊とまり、やっと首都に帰って、日本への直行便に滑りこんだ。やれやれ、これで命拾いだ、死なずにすんだ、と喜びながら機中の人となる。でも、なんだかまだ変なのだ。備え付けのモニターに飛行図がでている。日本語で表示されているのでありがたいのだが、どーーも変。チェンマイのはずが「チェンナイ」になってるし、ムンバイが「ムソバイ」と書いてある。この飛行機はマサライに仕組まれたもので、どっか異次元へ連れて行かれそうな気がした。この不安は、すぐに現実となった。成田上空に近づいた後、飛行機がぐるぐる旋回しだしたのだ。モニターに出ている飛行機の絵がチットも動かなくなった。ぞっとした。一時間くらい動かない。アナウンスがあって、成田は大雪のため着陸ができないという。上空待機する飛行機も多いため、やむなく名古屋空港に降りることになった。そこで、さらに待機。午後11時すぎて、ついに乗客は降ろされることになった。セントレアからの旅費、宿泊代その他一切面倒はみてもらえない。われわれは最終電車を乗り継いで、なんとか名古屋市内にたどりつき、また一泊して翌日東京に帰りついた。みんな疲れきって、マサライに祟られたことを確信したのか、車中では会話もなかった。

さらに悲劇はつづいた。帰国後、ぼくの足が真っ赤にはれ上がり、あわてて医者にいくと、ツツガムシ病ではないかと、医者が青ざめた。しかし、熱帯に行ったのだから北国のツツガムシはいないだろう。たぶん毒虫にやられたのだということになり、処置してもらって様子を見ることになった。それから、マラリア蚊にやられたなら3週間ほどで症状がでるかもしれないともいわれた。果たせるかな、翌日38度9分の発熱があり動けなくなった。もはやブログを書くどころの騒ぎではない。一度は、これで終わりかなぁとさえ思った。

観念して病床に臥していたら、幸いにも今日になって熱が下がった。ツツガムシでもマラリアでもなかったらしい。それにしても、こんな目にあったのははじめてだ。まだ、体のあちこちが痛いし、足もはれている。ほんとうにマサライの威力はすさまじい。もしも命ながらえたあかつきには、同じひどい目にあわれた大先生とともに、秘境の精霊のパワーについて、本格的に調査しようと約束した。とりあえず、現地の子供に書いてもらったマサライの姿や、それらが住んでいる精霊の家の鬼気迫るありさまを、画像でお伝えしておく。健康を取り戻せたら、また続きを書きます。

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お正月、ぐだぐだするだけの不毛な幕の内があけて、初仕事は日本橋の老舗、山本海苔店の社長さんインタビューだった。寒い朝だった上に、時間の感覚がすっかり変になって、早く着きすぎた。でも、居場所がない。しかたがないので、山本海苔のビルの裏に回って喫茶店を探したら、運よくこのビルの中にちいさなお店がみつかった。「ラ・メール」という名前もいい。12席くらいのお店だが、店内は昭和初期のカフェのにおいが漂う感じだ。これはいいところに入ったなと思い、メニューを見たら、もっとうれしくなった。
なんと、海苔トーストというお勧め品が朝のサービス価格400円で供されているではないか。老人の朝飯と来れば、どこかに「和食」の気配があるだけでありがたい。すぐに注文すると、ほんとに昭和にタイムスリップしたかのような懐かしくも麗しい女性がきてくれた。
「これって、山本海苔を巻いたトーストなんですか」とたずねると、
「そうですわ。山本海苔の先代のころから40年もつづく店です。だから、名物なんです」というご返事。
さっそく注文して、ガブリといってみた。
そうしたら、口の中まで一気に春がきた。うまーーーーい!
なんといったらいいのか、そう、お餅の磯辺焼きがありますね。あのお餅をそっくりパンに換えたものを想像してください。海苔とトーストがこんなに絶妙のマッチングだったなんて。その姿、味、香り、どれをとっても磯辺焼きだけれど、パンに溶けたバターの塩加減がすばらしく、しかもこんがり焼けたパンは噛めばサックリと切れる。
傑作と呼んで、だれに憚りあろうか!
感動していると、さっきの女性がきて、名物はまだありますわ、と教えてくれた。とたんに、ぼくの小さい目がらんらんとかがやいた。
「こんどは現在の社長さんがみつけてくだすった品で、モラジュースというんですの。南米アンデスのベリーで、体にすごくいいんですよ」
聞いたことないジュースだったが、これもすぐに注文して、一口飲んだ。
また、これがうまーーーーい!!!!
ブルーベリージュースをちょっとミルクで割ったような、芳醇ですっぱい「初恋」の味だ。
飲んでる間じゅう、あがた森魚がうたってくれた「モンテカルロ喫茶店」が頭の中に流れっぱなしとなった。とにかくこの発見を証拠に残さねばと思い、大西成明カメラマンのお嬢さん、大西奈瑠美さんにあたりの情報を携帯で激写してもらった。記念ショットとしては、山本海苔のイメージキャラクターともいうべき、女優山本陽子さんのカレンダーの前を指定した。
こそしてもちろん、かかるみごとな珍品二品を供する「ラ・メール」を、即この日から、ぼくの日本橋の定番喫茶店と決めた。
あとで山本海苔の社長さんにうかがったところ、トーストに海苔を巻いて食べるのは山本海苔店の家伝で、子供のころから食べているとのこと。山本家ではごく普通の食品なのに、ぼくがあまりにも感動しているので、クスクス笑っておられた。でも、こんなうまいものを出してくれる喫茶店は他にありません。
ちなみに、モラジュースのほうは、社長さんが向かいの三越で発見しためずらしいジュースなのだそうな。
いやいや、とってもいいもんがみつかって、うれしい初仕事となった。

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新年おめでとうございます。今回は初荷なので、いつにも増してタップリと書きます。十分に時間をとって読んでね。
お正月最初にとどいたオークション・カタログは、アメリカのヘリテージ・ギャラリーズというところが主催する新春第一弾「アメリカン・コミック・オークション」だった。 アメ・コミのヴィンテージ物の人気は衰えることを知らない。いまや、サザビーズやクリスティーズまで手を出している状態だ。
さっそくカタログの中身をチェックしている。「マッド」という有名な風刺コミック誌のオークションと一緒に開催のようだ。ざっと目を通すと、すぐに「バットマン」の創刊号(1940)にぶちあたった。これ、ほしい。でも、きっと5万ドル以上の高値になるんだろうなーー。最近は映画にもなってるから、まず値がさがることはないよな。あきらめようかな。
・・・などと考えてるうちに、ハッとなった。映画という言葉で、思い出した。ディズニー関係だ。探し物があったのだ。急いでディズニーの刊行物が出ているページを物色する。あいかわらずたくさん出品されているけれど、肝心の「グレムリンズ」が、ない!やっぱり、ないかーーー!
「グレムリンズ」といえば、みんなはスピルバーグ作品だったか、あの怪物妖精映画「グレムリン」のかわいい化け物を思い出すだろうけれど、じつは第二次世界大戦中にウオルト・ディズニーが早くもこのキャラを使ってコミック絵本を刊行していたのだ。映画の「グレムリン」は、いまから60年前に生まれたディズニー・キャラに源を発している。いや、そのディズニーだって、グレムリンのヒントは、ある空軍パイロットから手にいれたものだった。戦争中、ちっちゃな小鬼みたいな「最も新しい妖精」がイギリス軍ヤアメリカ軍の戦闘機にいたずらをしかける事件が続発し、パイロットのあいだで話題になったのだ。はたしてそんなおとぎ話めいた事件が事実だったものかどうか? でも、ぼくは目下、その謎を探求するための「グレムリン」コレクションを継続している。
グレムリン調べのきっかけは、ぼくが世界の妖精を事典化する仕事にかかわったときのことだった。話は10年ほど前にさかのぼる。映画「グレムリン」がヒットしたもので、事典にこの妖精もいれたくなり、資料を調べだした。でも、どの資料もあいまいで、第二次大戦中に戦闘機に穴をあけたり、電波を妨害したりした「最も新しい妖精」、としか書いていないのだ。
ところが、あるとき、アメリカのコミック専門古書店から送ってきたカタログに、なんと
ウオルト・ディズニーの「グレムリンズ」という本が出ていた。出版は1943年だから、まさに戦争中だ。当時、なんと10万円近い値が付いていた。あとでロンドンのSF専門古本屋でも一冊発見したが、これだって20万円などというベラボーな値がついていた。
それから10年のあいだに、この本をなんとか3冊ゲットしたけれど、なかの自慢はビル・ジャスティスのサインと色つき原画のはいった一冊だ。ビルはディズニースタジオのエース・アニメーターだった。1937年に入社し、「ファンタジア」や「ピーター・パン」、それに「メアリ・ポピンズ」など名作映画のキャラつくりや特撮に力を発揮した。ミッキー・マウスなんかもビルがほとんど描いていたのではないだろうか。ぼくの持っているビルのサイン本からすると、グレムリン・キャラを完成させたのも、ビル自身だったみたいだ。絵がすごく似ているし。だから、このキャラ入りサイン本は貴重品なのだ。ついでに、ビルがこの本を贈呈したパティー・ヒルとは、作曲家として映画音楽にもかかわったパティー・スミス・ヒルのことだろうか。この女性はあの有名な歌「ハッピー・バースディー・トゥー・ユー」歌を作り、児童教育にも貢献があった。ビルはどうも、この人に贈ったらしい。とすれば、すごい来歴をもつ一冊ということになる。
でも、この単行本には、じつは大元になった短編があるのだった。この10年のあいだに、ぼくはいろいろなグレムリンを発見したのだが、一番古いのが「コスモポリタン」誌1942年12月号に掲載された「グリムリンズ」というクリスマスのファンタジーだった。作者は「ペガソス」というペンネームだが、イギリス空軍パイロットのあいだでこの物語がよく知られている、と冒頭に書かれている。つまり、イギリス空軍内に発生した実話だというのだ。
話は単純そのもの。ドーヴァー海峡の上でドイツ軍と戦うイギリス空軍兵士が、ある日飛行中に戦闘機の故障にみまわれる。見ると、翼にたくさんのちいさな妖精が乗っていて、錐で穴をあけたり、計器を狂わせたり、妨害をしている。飛行機は不時着せざるをえなくなった。パイロットは地上でも犯人の妖精と遭遇し、戦闘機にいたずらをしたわけを訊くと、古くから森で平和に暮らしてきたグレムリンが文明や戦争のおかげで暮らせなくなり、人間に復讐しにきたのだと判った。驚いた兵士は、悪いのはドイツだと説明し、グレムリンとともに地球の平和をとりもどすためドイツ軍追討にでかける・・・・・・
まさしく第二次大戦下らしいファンタジーなのだが、熱烈な愛国者だったディズニーはこのキャラを反ドイツ・キャンペーンに利用した。戦争ヒロー漫画誌「ウォー・ヒーローズ」1943年4-6月号にも、ほぼ同じストーリー漫画を掲載した。ぼくが発掘したディズニーのジグソーパズルにも「グレムリンズ」300ピース物があり、箱の底に贈り主のサインと1946年の日付がある。この外箱には、グレムリンのアニメーションが制作中と告知してあるから、まちがいなくビル・ジャスティスがこの仕事を引き受けていたはずだ。
まだある。このキャラはこの時期に「ライフセーバーズ」というミント菓子の広告にも使用されている。コピーには、「空中戦の現場に出没する不思議なトラブルメーカー、グレムリンのことは知ってるよね。グレムリンに襲われたら、このミントが効くぞ!!」と、ある。しかも、絵や作者はディズニーの絵にかぎられるわけではないのだ。たとえば、GMのガソリン関係子会社の広告に「二羽の白頭鷲(合衆国にシンボル)を突撃させるグレムリンは、じつは敵に痛い目を見せるアメリカ空軍のユーモアなのだ」と、ある。さらに石油会社エッソの広告にも、「グレムリン一族名士録」というシリーズがあって、5回目に乗った「最大の疫病神ノッキー・ナイルズ」の広告を手に入れたことがある。ノッキーはエンジンにノッキングを起こさせるグレムリンだ。ぜひ、画像をみてほしい!
そうこうするいち、また珍本がみつかった!1942年刊行の「グレムリン・アメリカヌス」だ。これもディズニーとはまったく関係なさそうで、著者はエリック・スローンという、いかにもウサンくさそうな名だ。前書きに「戦闘機に乗るパイロットはしばしば飛行中に神経をやられる。これにうち克つには、ユーモアのセンスが必要だ。これは、空のいたずらものグレムリンをはじめて目撃したエリックが一年間その種類と活動について書き溜めたメモをまとめたもので、最近は友軍のアメリカ空軍にもイギリスの妖精が出張ってきて力を貸していることが判明した」と書いてある。
もう一冊は、ジュディー・バーガというふざけた筆名の作者による希本「グレムリンのいたずら」(1943)だ。これには、「イギリス空軍内の噂に全面的に依拠した話」として、イギリス空軍の某パイロットに献辞がささげられている。中身はさまざまなグレムリンの暗躍を絵にあらわしたもの。たとえば画像に示したのは、左ページに「ジブラルタル海峡にいる毛むくじゃらの脚をもったジブラルタン」、右に「色気でパイロットの理性を狂わすグレムリン姫」。ヘタッピなところが逆にリアルだ。この本の最後に「イギリスの田舎ではグレモスキー教授がグレムリン除けの粉薬を開発中」という絵まで載っている。
というわけで、グレムリンのうわさは戦争中に同盟国の間に大流行したことが判った。問題は、最初にこの噂を流したのはいったい誰か、最初にグレムリンを目撃したイギリス空軍兵士とは誰か、という点に絞られてくる。その答えはやっぱり、1943年に出たディズニーの単行本に隠されていたのだった!! じつは、この本で著者が名前を公にしていたからだ。カバーに書かれたその名は、「ロアルド・ダール」 知ってる人は知っているビッグネームだった!
ダールはたしかに第二次大戦中、戦闘機乗りだったのだが、飛行中にエンジントラブルを起こして不時着し、負傷した。そのため戦闘機をおろされ、反ドイツ情報戦の仕事に回され、アメリカ大陸にはいりこんだ。ダールはそのとき、飛行中の故障事故という自分の体験を活かして、ひとつのファンタジーを思いつき、空軍内に噂をひろめて、仕上げにディズニーの力を借りた・・・・・と思われる。とってもダールらしい話ではないか。なぜなら、ご存じのごとく、ダールは戦後きわめて有名なファンタジー作家になったからだ。ジョニー・デップが出た映画「チョコレート工場の秘密」の、あのへんてこりんさ加減だって、原作者ダールのセンスに負っていることは確実なのだから。
ちなみに、ぼくが持ってるほんとうの珍本をご覧に入れよう。最後まで伏せておいたが、いよいよ出番だ。本自体は同じディズニー版「グレムリンズ」だが、なんと、ダール直筆のサインと書き込みがある。日付は1943年9月12日だろうか。著者贈呈本である。おまけに、ビルが描いた愛らしいグレムリンの絵に対し、ダール自身のコメントが書いてある。「この子にはダービーハットと尻尾を付けなくちゃぁ」と。こんな要求がだせるのは、原作者しかいない。
もちろん、グレムリンにまつわる全真相はいまも捜索中だ。まだまだ、材料は出てくるだろう。あ、ビルが手がけたはずのアニメも、いつか見たいし。

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