2005年11月

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 2年間かけて準備した群馬自然史博物館の企画展「驚異宝物館:ヴンダーカマー展」が、いよいよ本日フィナーレとなる。日本大学芸術学部の学生たちと自然史博物館がコラボレーションした史上初の試みだったが、学生なんかにちゃんとした博物館の展示ができるわけない、という世間の冷たい常識に対抗する機会を作ってくださった長谷川善和館長、ならびに学生を一人前にあつかってくださり厳しく指導いただいた高橋、姉崎両館員のお力で、ものすごいものができあがった。これを見ないでは、ヴンダーカマーは語れません・・・・けれども、その展示もとうとう本日かぎりになった!
 まず、会場の入り口に6メートルのワニが天井からぶら下がる。このワニは、中世の教会で聖ゲオルギウスが龍退治をした記念物として天井に飾られ、またのちには教会に敗れた悪魔の屍骸としても展示された伝統をもつ、最初の動物標本だ。ひと夏取り組んだみんな、おつかれさま。すごい迫力だった。
 このゲートをはいると、乱雑に並べられた標本の数々がある陳列棚にいたる。ちゃんとした標本もあるが、ヴンダーカマーは驚異を展示するところだから、いろいろ加工を加えないとおさまらなかった。羽を逆さにつけたフウチョウだの、ほっかむりをして釣竿もったイタチだの、とにかく自然と人工のミックスがきわまっている。自然史博物館でこうした奇怪な標本を展示するのはめずらしいことだが、ここにこそ博物学的想像力の原点がある。神が創造した自然には奇跡や神秘がごろごろしているはず、人間がつくるものが神に想定されなかったはずはない。それ!、人魚だ、ドラゴンだ、と昔の博物学者ははりきったのだ。今回、その人造生物を学生に制作してもらったところ、傑作が目白押しとなった。入り口に展示されているキマイラのコーナーがそれ。たとえば、「アンホウズキ」というホウズキそっくりの魚。ホウズキの実に擬態し、頭に付いた偽の餌をのばして茎にぶら下がっている。この造形がすばらしい。
 博物学的にすごいのは、萩の田中市郎が保存したもっとも完全な姿をしたリュウグウノツカイの標本。これ、本邦初公開で、これまでは左にあるビンのなかに液浸保存されていたのを、職人さんが立派な姿にしてくれたものという。ぜひ、尻尾を見てほしい。たいてい深海から浮き上がった時点でかじられたり落ちたりしてしまう尻尾は、めったに残らないのだ。田中市郎という萩の博物学者は、ほかにもいろいろな採集調査をおこない、標本を教育に役立てた。子供だけでなく大人に対しても、お祭どきなどを利用し自分で場所を作って標本の展示と講演を露天でなさったとも聞く。まさに、日本ヴンダーカマーの先人だ。もっと世間にみとめられていい人だ。
 で、今回ぼく自身のコレクションもひとつふえることになった。キマイラ・コーナーに展示されたジョン・スヨン君の大作「100年後の三匹の子豚」だ。ここに何枚か図像をそえる。未来の子豚は、狼さんに家をこわされないよう、宇宙や海底に家を建てる!! 和紙など思いもかけない素材でつくられている。「子豚の家に進化」を驚異の造形で表現したその発想に脱帽した。来年五月にはジョン君の個展も開かれるそうだ。ぜひとも、実物をごらんあれ!それから、ここに展示した90体ものキマイラたちをオークションにかけるイベントを、東京でやりたいなーーー。
 

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 ほんとうにご無沙汰です。
 25日から東京タワー4Fでオープンする「感どうする経済館」の準備で、書き込みする時間がありませんでした。沖縄の話を早いとこ終らせよう。

 鬼才に5年ぶりで会ったんですよ、沖縄の本部(もとぶ)で。晃作クンという魚類、爬虫類ほかナチュラル・ヒストリーの研究者と。この人とは、水木しげる大先生のお宅で会いました。なんだか知らないけど、「ちょっと来なさい、大福とタイヤキがあるから」と呼ばれて、大先生ご自宅に行ってみると、たしかに大福とかタイヤキが山のように並んでました。ボクはもう、ガシガシ、ズンズンと食べましたけど、気がついたらすごい美人が目の前に座って微笑まれております。ところが、大先生だけ、そわそわ緊張してらっしゃる。「この人が美人のY子さん。こちら、アリャマタさん」と、妙な紹介をしたきり四方山話に突入。すぐに夜になってしまったので、ごちそうさまを言って帰ろうとしたら、大変に小顔で手足の長い、いかにも生物やってそうな青年がでてきた。水木さんの秘書をしているとのこと。「Y子の弟です。エビだのカニだのやってます」と、こんどは生物ばなしが始まった。じつに詳しくて関心し、一度フィールドの南の海に行こうということになった。ぼくはこの青年に出会えてとてもうれしかったので、「気に入りました。こんど二人で南の海へいきます」と水木さんに言うと、大先生はいきなりうれしそうにニヤニヤされ、「行きなさい、行きなさい!!」と、鼻からホゲホゲと息を吐きながら祝ってくださったのでした。でも、ちょっと変でした。
 その後3ヶ月したら、水木大先生から電話がきた。いきなり、「返事は?」と脅迫なさるので、「何のことですか、ヤブカラボーに」と聞き返すと、「だから、見合いの返事。なしのつぶては失礼だと相手が怒っておる」とおっしゃる。「ほら、美人のY子さん、美人の!」と攻め立てる。なんと、大福食べにいらっしゃいというのは、大先生にとっては、見合いに来い、ということであった。大先生は、体が幸せそうに太っているのに仕事や恋人には恵まれない男が大好物なので、ひとつアリャマタに見合いでも、と思い立たれたのであった。でも、見合いだっていわなきゃ、縁談がすすむわけはございません。話はあっさり白紙に戻りました。「大センセー、そりゃないでしょー!言ってくれなきゃーー!!」と、いちじは師弟の縁を切るかどうかの騒ぎになりました。
 あ、そんなことはどうでもよかったんだ。以来、晃作クンには生物のことをいろいろ教えていただき、あの爬虫類学者の千石正一先生と晃作クンの結婚式にも出席させてもらいました。晃作クンは故郷の淡路島で自然研究をつづけ、1年前いよいよ沖縄に移住したのでした。その後、どうなっているのか、成果があがっているのか、と気になったので、電話をいれて、翌日会うことにした。
 次の朝、ホテルにおおきな車で迎えに来てくれたのは、晃作クンであった。なんだかキラキラ輝いて、水木さんのところにいたときの青年とはちがう。さっとだした名刺に、「ネオパークオキナワ 自然博物情報館長」とあるではないか! そう、いまや「南の旭山動物園」をめざす「ネオパーク」の博物学関係の館長さんになられていたのであった。
 このネオパーク、おもしろくてビックリしてしまった。戦前に沖縄にあった軽便鉄道を復活させ、蒸気機関車でジャングルのなかに走らせる。その迫力は、ディズニーランド並であった。それから、鳥とキツネザルを放し飼いにしてある巨大ケージはすごかった。フラミンゴやベニトキと遊べるのだ。アマゾンの鳥がいるエリアへは水中トンネルで行く。巨大淡水魚が目の前を泳ぐ。とてもすごい。ネオパークなんて、ぼくはまったく知らなかったが、これは無知もいいところであった。さらに、映像室も充実。来年三月にはパワーアップして大改造再オープンされるので、いま、晃作館長が沖縄の生きものと触れ合える施設と映像づくりに走り回っている。全力投球の迫力があって、これはすごい施設になりそうだと確信した。
 ぼくは知られざる「ジュラシックパーク」を発見した思いで、園内を見物した。ちかく海の生き物も見られるようにするという。ヤンバルの生きものも間近にみられる展示がやがて実現するだろう。国内ではまず見られないホウシャガメもここで見られるかもしれないと聞いて、興奮した。鬼才がついに仕事の場をみつけたのだ。
 うれしくなって那覇のホテルへ帰った。途中、牧志中央市場に立ち寄り、20年ほど通い詰めている「ひらみレモン」のスタンドへ駆けつけ、いっぱい100円のジュースをガラスコップにいれてもらってグビグビ飲んだ。ようするに、沖縄名物シークアサージュースなのだが、ここのがいちばん美味しい! いつものように、たて続けに三杯飲んで、ふーーっと一息ついた。この気分は沖縄でないと味わえない。
 夜、ネットを見たら、勝負した19世紀の自動人形のオークション結果がでていた。驚くほどの高値で落札されていたので、却って諦めがついた。 

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 沖縄のお話のつづき・・・・
を、じつは夕べ3時間かけて長編を書いたんですよ。画像貼り付けてるときに、ごはんですよ、といわれて、ハーーイ、と返事した拍子に、「戻る」をクリックしちゃったんですね。そうしたら、書いたばかりの新規投稿の書き込みがぜんぶ消えてしまった。さすがにショックを受けて、1日寝込みました。人生とは無駄の連続、という哲学を実践するボクでも、これはほんとに徒労だった。それで、忙しいさなかでもあり、小出しに書くことにします。
 沖縄にでかけた理由は、このうつくしい島の景観を守ることと島の発展をどうやって調和させるか、を議論することだった。でも、これは近視眼で眺めちゃいけない。そのいい例が沖縄の景観にある。フクギというゴムの木によくにた緑濃い植物の並木だ。
 フクギは、むかしから強い風や日差しから村を守る天然の壁として、かならず道路やウタキや人家のまわりに植えられてきた。そのもっともすばらしい実例が本島の本部(もとぶ)というところにある備瀬地区だ。よく茂ったフクギ並木が風、波、台風、日差し、そして騒音などから村落を守っている。写真で示したとおりの景観だ。とにかく、涼しくて、気持ちよくて、静かなのだが、フクギは育ちがとても遅いので、このようにみごとになるまで、長い年月を要する。だから、何代もかけてじっくり世話を焼かない沖縄のなつかしい景観が作れない。とでも、家の建て方が現代風になったり、暗さを嫌ったりする時代になって、ばさばさ切り倒された。もう、古くて立派なフクギ並木は、ほとんど残っていないらしい。
 まるで沖縄の伝統を冷蔵庫に入れて保存しているかのようにきれいで気持ちのいい、あの竹富島にも、村落を縁取るすばらしいフクギ並木があって、緑のカーテンのように気持ちがよかった。観光資源として大事にされているかと思っていた武富のフクギまでも切り倒されるという昨今、話し合いが急務となってきたわけだ。
 部外者のボクなどには、とても口出しできる話ではなかったけれど、景観問題を風水思想から考えて、3つほどコンセプトをお伝えした。
 1  景観は朝飯と同じ。とりたてて訳に立たないが、毎日同じものを食べ続けても飽きない。持続力    こそ最大の力。
 2  景観はほっといてもいいように見えるけど、じつはとてもコストがかかる。たとえば、東京でも    きれいな生垣の家が絶滅しかかっているのは、世話がやけるからだ。今時、庭仕事ができる家庭    は少ない。
 3  したがって、景観は頑固に守る人がいないと、経済性や簡便性の前につぶされる運命にある。

 でも、、沖縄にはそういうことができる人たちがまだまだいる。その一人を紹介したいのだけれど、それは次回にする。つい、「戻る」ボタンを押しちゃいそうだから・・・

 それよりも、本日の大発見をおまけに書いておこう。12月2日から日本橋三井タワーオープンする「マンダリンオリエンタル東京ホテル」を取材に行った。ここは38階だかの最上部がレセプションだ。すばらしい景観が楽しめるので、これを見に行くだけでも価値がある。さて、その展望窓から下を見たら、日本銀行本店の古い建物がほぼ真上から見えた。そして、ながらく噂になっていた日本銀行の神秘をこの目で見ることができた!!
 なんと、本店の建物は、上から見ると「円」の字になっていたのでのである!!やっぱり、昔の建築家はすごいね。だれにも見えないところにまで、景観をしかけてくれていた。僕はあきずにこれを眺めた。
マンダリン東京ホテル、ここは探険のしがいがありそうですよ、みなさん!!

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 沖縄の会議から帰ってきました。おいおい詳しい話を書くけれど、今回はチョコレートの話。
 泊まったホテルのパソコンを借りて、19世紀後半に活躍したヴィシーの自動人形がたくさん出たオークションにビッドをいれた。もちろん、荷物はほったらかしのまま。というのも、入札締め切りが近かったからだが、なにしろヴィシー作品といえば自動人形コレクター垂涎のまと。年収を全部はたかないと落札できそうにない、お高いものだ。それで、迷っていたのだが、沖縄の暑い空気をかいだら、一気に勇気が出て、ドン・キホーテの屋上から絶叫マシンで飛び降りるような覚悟で、大枚を入札。
 やっと落ち着いたら、なにか食べたくなった。隣りのショップを覗いてみると、なんと、泡盛をいれたウィスキーボンボンを発見! これは、ちゃんとしたグラニュー糖の糖衣に泡盛が封じ込まれたものかどうか確認しニ、レジへ走った。10個いり1050円と、けっこう高価だ。最近は、チョコレートの中に直接ウイスキーなどの液体をいれたものが「ウイスキーボンボン」として売られており、いつもだまされるので、『この中はジャリジャリした砂糖の器になってるのでしょうね』、と念を押した。ぼくはこの糖衣のジャリジャリ感がたまらなく好きなのだ。ところが最近はこれがない!一時、北欧の製菓会社が出しているウイスキーボンボンを取り寄せて食べていたが、生産中止になった。依頼、この手ノボンボンにお目にかかれぬ日々がつづいていた。絶滅に近づくお菓子のひとつなので、みつけたら何をおいても買しかない。とくに、ウイスキーボンボンの沖縄バージョンときては、見過ごすわけに行かぬ。
 買ったその場で銀紙をあけ、一口かじってみた。ジャリッと来る!! ほんもののウイスキーボンボンだ。涙ぐむ。あっという間に10個完食。アルコールは一滴も飲めないのに、これだけはいくら食べても大丈夫。うれしくなって、もう一箱買って、部屋にはいった。
 寺田寅彦は、コンペイトウがどうやってできるのかを科学の秘密としてエッセイに書いた。この短編は傑作で、ぼくのお気に入り科学エッセイになっている。でも、これを読んだ小学生のころから、ボクには寺田におけるコンペイトウに相当する「謎の菓子」を自分でも持っていたわけだ。ウイスキーボンボンはどうやって固いボトル形の糖衣の中にウイスキーを封じ込めるのだろうか、と。この大疑問は誰に聞いても答えてくれなかった。近所のお菓子屋の大将に聞いたら、砂糖でボトルの形をつくり、その口をあけて液体を流し込むんじゃねーーーのか、と適当に言った。でも、子供心に『絶対そんな単純なモンじゃない。コンペイトウの謎よりもっとすごい秘密があるにちがいない」と直感したぼくは、おじちゃんのバカ、と言って立ち去ったような記憶がある。
 あーー、それにしても、ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』があのころ読めたら、ぼくは寺田のエッセイと一緒にきっと熟読したにちがいない。ティム・バートンとジョニー・デップの怪人コンビがそれを原作にして作った新作映画『チャーリーとチョコレート工場』があのころ公開されてたら、ボクは近所の板橋区大山にあった洋画専門「ピース劇場」にはせ参じたはずだ。チョコレートと秘密との取り合わせは、まさにウイスキーボンボン自体のように神秘な味がある。だが、そんなチョコレート工場の秘密は長い間解けなかった。やっと、50歳過ぎて答えがわかった。こどものとき直感した「もの凄い秘密」はほんとうだったのだ!!
 ウイスキーボンボンは、砂糖を固めた容器に穴を開けて液体を注ぎこむのではなかった。なんと、砂糖
を熱で溶かし、そのあと砂糖液のなかにお酒を流し加える。その混合液を、コーンスターチとかそういう
土台に型のくぼみをあけ、そこに流し込んでゆっくりと冷やすのだ。すると砂糖液が冷えて外側から殻(糖衣)をつくって分離していく。やがて、まんなかには、ウイスキーと砂糖の混合液体が残る、という仕掛けだ。こうして、糖衣のなかに液体が閉じ込められる。物質の魔術だ。あーーーら、不思議やな、フシギやな!! 後は、その上にチョコレートをコーティングするだけ。これを、チョコレート工場の秘密といわずしてなんといおう。
 と、泰子さんに説明して、3函めを買いに行こうとしたら、「いい加減にしろよ!!」と、ピシャリ。われに返って、沖縄家庭料理のお店にでかけた。いろいろ内閣府の人と打ち合わせもして、帰り際、屋根にとってもキュートなシーサーがいたので、おもわず激写。6年ぶりの那覇はどんどん都会にかわってきている。明日は海に潜りにいこう。

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 また明日から沖縄に出かけ、シンポジウムに参加しなければいけないので、しばらくブログが書けない。こんなにあちこち飛び回っている老体に毎日ちょっとづつブログを書け、という人もいるけれど、とても今は無理。毎日ご飯をたべる感じの書き込みリズムが作れるまでは、たまにヴォリュームあるやつを有珠山爆発のように頑張って吐き出す、というブログの常道を外したやりかたで地味につづけていく予定なので、気がむいたときに立ち寄ってくださいまし。
 昨日10月31日は角川書店の主催する「ホラー小説大賞」の授賞式だった。なんと、筒井康隆先生が
お越しになるという大事件がおこり、森村誠一先生もここぞとばかりにご自分のサイト用にデジカメで激写を開始された。たぶん、森村サイトに会場風景を写した写真がのることだろう。さすがに筒井先生と森村先生のところへは、次々に挨拶の人が押し寄せるので、ボクは脇に引っ込みウーロン茶をさみしく飲んでいると、知り合いの編集者に声をかけられた。友達のいないボクとしては珍しいことが、この人もやっぱり自滅型のコレクターなので、話相手がなかなかいないらしい。
 この人は映画の古ポスターなどを集めている。昔、浅草の映画館が店じまいしたとき、ほったらかしになった劇場のなかに一緒にいれてもらい、手作りのチラシやプログラムをごっそりもらってきた仲であるが、最近はネットオークションにはまっているとのこと。しかし、ここまでオークションが競争になると、値ばかり上がってほしいものに手がとどかない、というグチの言い合いとなった。結果、できればタダでできる、誰もやらないコレクションに切り替えよう、という話になる。じつはボクもすでに映画ものはタダでできるコレクションを10年前から始めている。映画配給会社がくれる試写会の案内状やグッズを大事に残しておくことである。各社、プレミアなどの大舞台では、じつにアイデアを絞った案内状やプログラムをつくるので、捨てるのがもったいない。たとえば、ちょうど一年前に挙行されたアンドルー・ロイド=ウェバー制作・作曲の映画「オペラ座の怪人」の試写会案内状。「オペラ座」好きのボクが、感動したほどの出来だった。黒い三角の紙ケースに赤いバラ一輪いれた案内状がとどいた。表には、金文字でタイトル。瞬間、頭のなかでウェバーの音楽が「だ・だ・だ・だーー、だだだだ・だー」と鳴り響きましたね。その写真みてください。映画もすばらしかったけれど、試写案内状もみごとだった。バラをそのまま乾燥させて仕事場にいまも飾ってある。でも、これはホンの一例にすぎない。
 こうしたタダ・コレクションはまだある。とくに福助である。次の写真は同じ仕事場においてあるキュリオケース内の福助コレクションの壮観であるが、いろんな方からいただいて(というよりもお預かりして)どんどん充実した。名古屋の彫金師、竹次郎さんから100体を越える名品をいただいたり、惜しくも亡くなられた女性の伊藤晴雨コレクターさんからお土産品になっている福助をたくさん送っていただいたり、また福助足袋の福助㈱にお勤めだった安斉さんという方からありとあらゆる会社グッズをご恵贈いただいたり。自力ではとても集まらなかった品ばかりで、大切に我が家に保管してある。こうなると、責任重大で、まさにお預かりしている、という緊張感がある。ついでにいうと、写真の福助のうしろにあるガラス・パネルは、自腹を切ってクリスティーのオークションで落札した骨董品だ。高さ183センチもあり、イソギンチャクのデザインをエッチングしてある。デザイナーはアールデコ時代のチャールズ・ギルバートという人。1930年代の豪華客船「ユナイテッド・ステイツ号」で一等乗客用サロンに使われた名品だったから、一目ぼれした。こうした豪華船はラリックやティファニーなどの有名ガラス・アート工房の重要な活躍の場だったのだ。サロンを海底のイメージにするべくデザインされ、掘り込んだ部分には金箔がかぶせられている。100万円近くつぎ込んで落札したのはいいのだが、あまりに大きく、かつ重いうえに、割れやすいので、航空便で運ばせたところ、困難をきわめ輸送費と関税で40万円もかかった!いまはめでたく自宅の浴室のパネルにはめこまれ、海底ムードを醸しだしてくれているが、よくもまぁ、ニューヨークから運んできたもんだと我ながら関心する。
 ちょっと脱線したが、ホラー小説大賞の席ではまだ話題があった。水木しげるオオセンセイや京極夏彦先生らと命をかけて制作した「妖怪大戦争」の監督、三池崇史オオセンセイの近況が聞けたのだ。監督、アメリカでしか公開されない超グロテスク映画をいきいきとして製作なさっておられるとのことだ。なにしろ世界の著名監督とグロテスク度を競う映画の一本になるそうで、水を得た魚のようであったそうな。これは、絶対見なければいけない、と思った。原作は岩井志麻子センセイ(ホラー小説大賞受賞作家だ)の『ぼっけえ、きょうてえ』だというのだから、角川の人や三池監督を拝み倒してでも見ないではおかない。なぜアメリカで最近おおっぴらににグロテスクな映画が作られつづけるのか、その意味を知るためにも。
 ボクは、ことグロテスクという話については大学院でその歴史を講義するほど興味をもっている。人間には、グロテスクなものに引き寄せられる無意識的な性向がある。業(ごう)と呼んでもいいだろう。そして、世の中にはグロテスクな表現でなければ描けないことがある。たとえば、北朝鮮の作家が自国の悲惨な生活実態を赤裸々に書くとすれば、美文や名文では達成できない場面にぶつかるだろう。日本でもかつてプロレタリア作家たちがグロテスクな文章やスラング連発のぶつ切り文章を開発し、労働者の地獄風景をあらわすのにいちばん有効に使った歴史がある。人間性のかけらもないハードボイルドなブルジョワ系作家、志賀直哉の文体が、あろうことか貧しいプロレタリア作家のアイドルになったことの謎は、そこから考えるしか解けないと思う。アメリカでも、ハードボイルドという文体が生まれている。
 そういえば、ボクは今年の夏、小学館という出版社で知り合った不思議な編集者、宮川さんという人と高知県赤岡氏にでかけた。そこでおこなわれる「絵金まつり」を見物した。明治初期に流行った無残絵の流れを引く市井の絵師、金蔵の作品がここにはたくさん残っている。赤岡町はかつて商家が軒をつらねた土地ということで、お大尽たちがパトロンになって金蔵に絵をかかせた。その屏風絵などが今も保存されており、夏になると各家がそれを門外に飾り、百目ロウソクの灯のもとで、おどろおどろしい残虐な場面や化け物出現の泥絵を通りがかりのお客に見物させる。このイベントが始まったばかりの頃は「知る人ぞ知る」催しだったが、今はものすごい人気となり、今年でかけたボクも盛況ぶりに腰をぬかした。絵金が飾られた通りは、夕方から身動きできないほどの人ごみになるのだ。
 さて、絵金のグロテスクな絵をひとつひとつ眺めていくうちに、ハッと思いついたことがあった。これは現代の地獄極楽図なのだ、と。ボクも子供の頃、近くの寺で坊さんが怖い地獄絵を見せながら絵解きをするのを見たことがある。怖かった。水木しげるオオセンセイも妖怪画に関心をもつきっかけになったのが、お寺で見た地獄絵だった。たとえば、地獄絵のネタ本にもなってる『往生要集』という地獄細見大百科を読んでごらんよ。生きるってことは、日々、肉が腐っていく過程のことだ、ってコレでもかというほど知らされる。子供はとくに、生まれる前の死の時代に近いものだから、まだお母さんのおなかの中にいた「生と死の中間」の記憶があって、そういう地獄絵によく反応するんだと思う。地獄の発明とビジュアル化こそがが仏教をメジャーにした最大のアート戦略だったんだね。その証拠に、絵金の絵の前に小さい子がしゃがみこんで、じっと残虐な絵に見入ってていた。生の肉、それも腐っていく過程にある肉を見る。それを見て初めて、アッ、おいらはこの世にいる物質の一部なんだ、と時間する。この世に生まれた危うさに気がつくんだね。そこからですよ、好悪だの感情だの、喜怒哀楽だのが生まれてくるのは。「知に生の肉が付く」、あるいは「生きる哀しみに知という肉が付く」、とでも言ったららいいのかしら。でも、肉は食べ過ぎれば、逆に贅肉となって健康を害する。グロテスクなものへの関心も、心を大きく成長させるけど、溺れすぎると逆に自分も腐ってくる。だから、宗教とか哲学がいつもグロテスクの調教師として付いてくるし、付いてこないと素人にはあぶない。
 絵金見て、三池さんのアメリカでしか見られない新作を見たら、そのへんの危うさの境がわかるかもしれない。あ、絵金のほうだったら来年の夏も見られるから、行ってくるといいと思うよ。その雰囲気のいくばくかは、ボクが撮ってきた写真で想像できるといいんだけれど。

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